ズをとるなど、日本趣味をも共有していた(注7)。ホイスラーは「色彩はいわばキャンヴァスに刺繍がほどこされているようでなければならない。言い換えれば、同じ糸があちらこちらに現れる刺繍のように、同じ色が継続的に連なり、多くの色がその重要性によって加減されながら何度も現れる。このようにして、全体の美しい調和を構成するのである。日本人がどんなにこのことをよく理解しているか考えてみるがよい。彼らはけして対比を求めず、反対に、繰り返しを追及しているのである。」(注8)と、色彩の配置によって生まれるものが本当の色であると述べている。この手紙は、ホイスラーの色彩理解を示しているが、ホイスラーは浮世絵の他にどのような日本の美術品を見てこのように考えたのだろうか。オリエンタル・ベインテイングの中でも最も日本を意識した作品、〈紫と金の狂想曲金扉風)(YMSM60 1864)〔図2〕に注目すると、着物をまとったモデルが床の上に座り、浮世絵を眺めているのがまず目に飛び込んで、くる。その背景には、ホイスラーが実際に所有していた大和絵風の金扉風が描かれている。扉風に見られる金雲は場面の大部分を覆い、画面の平面性を強調していると同時に、その中から現れるモティーフを引き立たせている。金の布地に人物や建物が色鮮やかに刺繍されているようにも見えるのである。金雲が画面全体を統一するための基本色の役割を果たし、その他の色彩の配置によって、より装飾的な画面を実現している。ホイスラーはこのような金扉風を鑑賞し、また自分の作品の中に描きこむことによって、より深く日本美術からインスピレーションをf尋て、5虫自のスタイルを石在立していったのだろう。人的交流次に、ホイスラーの人的交流に注目したい。ホイスラーの書簡全体を通して見てみると、日本との関わりは、1880年以降、フランスの日本美術愛好家を通してよく表れていることカ宝わ治、る。1850年代後半をパリで過ごした画家は、そこで日本の品物や美術作品を目にしたことと思われる。1859年には活動の拠点をロンドンに移し、その後もファンタンニラトウールやアルフォンス・ルグロと「3人会」を結成したり、サロンに毎年作品を送ったり、また、パリで個展を開くなど、フランスとのコンタクトを常に保っていた。さらに、1892年からしばらくの問、パリに再ぴ居住した。1904年に初めて出版されたホイスラーの伝記は、フランスの批評家、テオドール・デュレによるものであった(注9)。ホイスラーは、ロンドンに宅多イ主後:、ファンタンをi邑してノtリの1育幸~を得iており、186022
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