ハUつdれた。現在は江戸期以降の模本が陽明文庫等に伝わる。その調書によると文永十一年(1274)の賀茂祭を描いた絵巻物をもとに、元徳二年(1330)に絵は高階隆兼、詞は入道内蔵権頭季邦による作品がつくられたという。さらに室町期には伝春日行秀作の「加茂祭礼草紙」も制作された(注31)。このようにして藤森杜の「深草祭J(注32)などの、神社の祭礼絵巻が相当数つくられたことが推測できるが、室町期までの原本の様相を伝えるものはこれらの他には見出せなかった。後白河院により創始された社についてみると、藤原定家の『明月記J安貞二年(1227)十二月廿八日条に「説信実令画新絵、今日持参内裏云々、正治元年新日吉小五月也、以成定朝臣記書之云々」とあり、侍従宰相藤原為家が正治元年(1199)の「新日吉小五月会」を、成定朝臣の記録に基づいて信実に描かせ後堀河天皇に献じたという。現在新日吉神宮に「新日吉小五月会古図」として伝わる享保十五年(1730)の模写は、年中行事絵巻の模写本であり(注33)、この祭礼を描いたものはやはり模本としても伝わらないようである。現存の15世紀半ばまでの祭礼図として、「祭礼草紙」(前田育徳会蔵・重要文化財)の存在は貴重である。「年中行事絵巻」同様に内容は祭礼に留まらず、山科家関与の行事の絵画化が指摘される。また近世の模本ではあるが、「月次祭礼図模本」(東京国立博物館蔵)も原本は15世紀前半に遡るものと考えられている。つまりここに描かれる賀茂祭や祇園御霊会、深草祭は、応仁の乱で中断されるその直前の祭儀を描くものとされる(注34)。16世紀の作例である光円寺本「京洛月次風俗図扇面流扉風」と「月次祭礼図模本」の近似を述べられた安達啓子氏は、稲荷杜と初午詣、田植えと田楽の情景〔図4〕だけが光円寺本にはないことを指摘された(注35)。これらはともに、(注2)掲出書によると古代の扉風絵からの伝統的画題であった。このことはつまり、古代からの扉風絵の伝統の崩壊をさすといえよう。15世紀の「月次祭礼図模本」と16世紀の光円寺本「京洛月次風俗図扇面流扉風」のあいだには、応仁の乱をはさんで、古代からの伝統の変容を読み取ることができる。おわりに本報告では、古代・中世と伝統化した祭礼観、およびその変容をみながら、祭礼図の系譜を雑駁ながら応仁の乱まで概観した。この後、室町末期の16世紀からは、まさに様々な祭礼図が様々な意図のもとに制作される。制作の主体者(注文主)や享受者は、これまでは主に公家を中心とした人々であったが、この期を境に注文主も享受者
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