注(1)報告者の視点は福原敏男『祭礼文化史の研究J法政大学出版局、1995年、および同氏による企画展示『描かれた祭礼』国立歴史民俗博物館、1994年に多くの示唆を得た。近年では、祇園祭礼図(2) 家永三郎『上代大和絵年表』名著刊行会、1998年(初版座右宝刊行会1942年)、および『新編(3) 岡田荘司「平安前期神社祭犯の「公祭」化」二十二社研究会編『平安時代の神社と祭記』国書刊(4) 井上研一郎「中世やまと絵考」、東北大学美学美術史研究室『美術史学』2、1980年の18頁表6において、同氏は[永観1年の忠公新調扉風][寛仁3年以前作の扉風]にも四月に大神祭が描かれていたとされる。しかしこれらは〔表1〕にも掲げたとおり、後述する家の神まつりの絵画(5) 臨時祭については三橋正「賀茂・石清水・平野臨時祭について」(注3)『平安時代の神社と祭記J(7) (注4)の井上論文9頁には、石清水臨時祭の絵画化について、賀茂臨時祭が平安最末期の文治(8)佐野みどり「王朝の美意識と造形」同『風流造形物語Jスカイドア、1997年、34〜35頁(初出、(9) 河音能平「王土思想、と神仏習合j同『天神信仰の成立』塙書房、2003年、10〜54頁(初出、岩波も極めて層が厚くなり、描かれる祭礼も描き方も多岐にわたって、展開してゆく。以降の展開を整理し系譜をたどる作業と、各作品に戻ってその個性を解読してゆく作業を別稿に期したい。に関して、その系譜をたどる試みが八反裕太郎氏によりなされた。八反裕太郎「祇園祭礼図の系譜17世紀を中心に−J『鹿島美術研究』年報第四号別冊、2002年、415〜428頁。同「京都国立博物館蔵「祇園祭礼図扉風」の史的位置Jr美術史』154、2003年、256〜276頁。国歌大観j角川書店、1983〜92年を参照して作成した。なお、管見の限りでは、『栄華物語』に表中の例が見出せるほかは、『源氏物語』や『古今著聞集Jなどの物語文学や説話集に、祭礼を絵画化した例を見出すことはできなかった。行会、1986年、l〜109頁。以下、大社の恒例祭杷の公祭化とその背景については、同論文による。化の事例であり、大神祭を描いたものではない。301〜366頁、および同「「臨時祭」の意味」『歴史手帖』15-5、1987年、10〜13頁、同『平安時代の信仰と宗教儀礼J続群書類従完成会、2000年に詳しい。本稿でも多くをこれらによった。(6) 石清水社の年中恒例祭杷である放生会絵画化については、(注4)の井上論文24頁に12世紀末の奥州毛越寺観自在王院四壁の「洛陽霊地名所j図中に描かれた例が挙げられる。この例以外報告者の目にも及ばなかった。六年[任子入内扉風]を最後に月次扉風から姿を消した後、これに代って描かれるようになったのではないかと指摘されている。だが〔表1〕から知られるように、石清水臨時祭絵画化の例は遅くとも[藤原頼通摂政大饗料の扉風]から確認され、以降も摂関・院政期を通じ、また〔表2〕にみるようにそれ以降も、絵画化されていた。岩波講座『日本通史j古代5、岩波書店、1995年)。講座『日本歴史1古代4、岩波書店、1976年)。同拙稿「稲荷をめぐる絵画資料覚書」『朱』40、1997年、113〜124頁。ω 『扶桑略記J「百錬抄』延久二年八月十四日条。同『扶桑略記』『百錬抄』延久四年三月二十六日条。同『扶桑略記』承保三年三月四日条、同四月二十三日条。なお『百錬抄』は四月二十六日のことと
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