鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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年以降から、ホイスラーの書簡にパリの日本美術愛好家の名前がでてくる(注10)。例えば、ファンタンは1863年5月1日の手紙で、マネやブラックモンがサロンに落選し、落選した画家が集まって展覧会を聞くことが決まったことなどを伝えている(注11)。その他、パリでのホイスラーの作品の評判や、1867年のパリ万国博覧会への出品作に関するアドヴアイスなどを書き送っている(注12)。しかしながら、これらの人々との聞で日本についての情報を交換するといったようなことは見られない。例えば、「ジャポネズリー」という言葉を最初に使ったとされるフイリップ・ピュルテイの名前が出てくるが、ピュルテイはファンタンを通して、ホイスラーに次のサロンに送る作品を尋ねたりするなど、二人の関係は、芸術家と批評家であることが分かる。また、ファンタンに宛てた手紙の中で、ホイスラーが次第に険悪の仲となっていた義兄、フランシス・シモア・ハデンの作品評を書いたことが原因で、ホイスラーがピュルティを「ハデンの子犬」と呼んでいるのである(注13)。ホイスラーのパリを拠点とした日本との関わりは、1880年代から見えてくる。1880年にエドアール・マネを通して批評家テオドール・デュレと知り合う。マネは「あなたが絵の巨匠であるように、私の友人、テオドール・デュレは目利きの美術鑑定家です」とホイスラーに紹介する(注14)。デユレは、すでに広く知られているように、1871年に日本へ旅し、日本美術についての記事を美術雑誌に寄稿するなど、日本に関する知識を有する人物であった。1892-95年頃、ホイスラーが「明日のデイネ・ジャポネには行けない」とデユレに書き送った手紙がある。デュレがホイスラーをデイネ・ジヤボネに誘うが、ホイスラーが忙しいことを理由に断っている。残念ながら、不参加の手紙ではあるが、ホイスラーが「ディネ・ジャポネ」の存在を知っていたことは確実であるし、別の機会に参加している可能性もある(注15)。さらに、ホイスラーは「ディネ・ジヤボネ」の発案者であるジークフリート・ピングとも親しかった。ピングがアメリカに行く際には、イザベラ・スチュワート・ガードナーに「日本や美しいものについての優れた大家」とピングを紹介する手紙を書いているし、ピングはホイスラーの作品の売買もおこなっていた(注16)。残念なことに、「デイネ・ジヤボネ」で時折日本美術について話をしていたという美術商、林忠正や、彼の周辺にいた日本人との直接のコンタクトを示す資料は現在のところ見つかっていない。確認できた資料は、ホイスラーの弟子であったモーテイマー・メンベスを、ホイスラーの知人として林が品川弥二郎に紹介した手紙のみである(注17)。ゴンクール兄弟のジャーナルを調べると、1881年4月に「あのホイスラーという名のアメリカ人版画家は何という変な生き物だろう」という驚きの記述が見られる(注18)。1894年のジャーナルには、ホイスラー23

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