鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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また、五代・黄壁鎮窯でみられる注目すべき新技術は、青套柚を施す前に素地の素焼きを行なっていることである。深い刻花丈をもっ町類の水注や、無丈の水注・査類など比較的大形器種で素焼きが行なわれている。恐らく、安定した焼成と光沢のある厚い紬を施すために素焼き技法を取り入れたものと思われる。素焼きの技術は、陳西省や河南地方では初唐期から三彩の焼成で用いられ、唐代・黄壁鎮窯の三彩でも認められる。越州窯青査ではこの時期に素焼きはまったく行なわれていないことから、これは外部からの影響によるものでなく、伝統的な技術を応用しながらより優れた品質の青査を生み出そうとする独自の技術革新と考えてよいであろう。この青套の素焼き技術は、北宋代の耀州窯でも大形器種生産に使われ、北宋後期には河南省の汝窯で応用される。さらには江南の南宋官窯へと伝わり、上質の青空を生産する基本的な技術となっていくのである。ただし、五代後半期に、II.皿類のような高台端部にまで柚が掛けられ、光沢のある天青紬が施された優れた青査が生み出される背景には、やはり越州窯青査からの影響が強く窺われる。唐末期の法門寺出土の越州窯・秘色青委〔図1〕には、陸羽が『茶経』(760年頃)のなかで、越州窯青査を玉に例えたような(注7)、光沢のある玉に近い質感が濃厚であり、五代・黄壁鎮窯のE・皿類はその質感の再現を指向して生み出されたと考えられるのである。唐代には大量の越州窯青査が長安に運ばれて受容されたが、五代になると越州窯青空の生産地域は銭氏の支配する呉越国として独立し、華北では戦乱が続いた結果、華北での越川、|窯青査の流通が著しく低下した。その結果、秘色青空の不足を補うために、当時の華北ではほとんど唯一の青査生産地であった黄壁鎮窯で、秘色青査の質感を目指して青套生産技術が改良され、II・ III類の天青粕青姿が作られるようになったOこれらに見られる「官」字銘はこの時期に黄壁鎮窯が官窯的な役割を担っていたことを示している。五代末期になるとさらに技術が向上し、同時代の越州窯青套を凌駕するような白色胎土の「東窯タイプJ(N類)が生み出された。つまり、五代における華北での越州窯青査の不足を契機として、唐代までは低いレベルに留まっていた黄壁鎮窯の青姿生産技術や意匠の水準は、一挙に高まり、短期間に越川、|窯と比肩するまでに発達したのである。3 北宋代以降の耀州窯青姿北宋代には耀州窯の典型とされるオリーブグリーン色の柚と劃花文や印花丈が施された青套が確立した。320

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