4 耀州窯青姿の技術的影響北宋代初期に、耀州窯特有の灰白色の綴密な胎土が使われるようになり、不自もやや黄色みを帯びたオリーブグリーンが主体となる。この紬色の変化は、この頃から薪にかわって石炭燃料の使用が一般的になることが原因と考えられる。施文は、北宋代初期には五代の町類に近い彫りの深い刻花文が見られるが〔図11〕、すぐに姿を消し、片切彫りと櫛目を多用した流麗な劃花文が主体となり〔図12〕、やや遅れて11世紀後半には印花文も多用されるようになる〔図13〕。この頃から、河南省の多くの窯で耀州窯の影響を受けた育委が生産されるようになり、黄河中流域一帯に耀州窯系青査の生産地が拡がる。その原因は、北宋朝が首都を河南省中部の開封に置き、政治の中心が陳西から河南地域に移ったことが挙げられる。この時期に開封を中心とする河南省一帯に、首都およびその周辺に陶査器を供給する生産地が数多く成立したが、それらの主要な製品として耀州窯系青套・磁州窯系陶器などが生産されたのである。なお、耀州窯系青査の生産地の拡大以後も、耀州窯はその中心的位置を占め続け、河南諸窯に比べて上質の青査を生産し続け、他窯に影響を与え続けた。しかし、北宋末期の11世紀末から12世紀初頭になると、隆盛をほこった耀州窯も河南諸窯への影響力が弱まり、華北の青空生産の中心的な位置から外れていく。替って中心となるのが河南省清涼寺窯汝窯である。金代に入ると耀州窯の生産の中心は黄壁鎮からやや東方の陳炉鎮一帯に移る。青査の紬は次第に黄色みが強く、紬厚と器壁が厚くなり、劃花文や印花文は粗雑化に向かう。月白粕の創生など新たな展開も見られるが、基本的には粗製化に向い、河南諸窯への影響はまったくなくなり、逆に河南で隆盛する鈎窯や磁州窯の影響が耀州窯に及ぶようになる。元代になると、青姿の粗製化はさらに進み、主要な製品は磁州窯系の白地鉄絵陶器へと移り、以後明代.i青代を経て今日まで、主に磁州窯系陶器を生産する陳西地方最大の窯業生産地として存続する(注8)。耀州窯青査は金代以降衰退に向い、その影響は他の窯に及ばなくなるが、その基本的な技術は汝窯に受け継がれ、さらに宋朝の南遷により、南宋官窯、龍泉窯などにも影響を及ぼしていく。汝窯(清涼寺窯)は、もともと耀州窯系青姿や磁州窯系陶器の生産を主体としていたが、北宋後期に中国青査の最高峰として知られる汝窯青姿の生産を開始した。-321
元のページ ../index.html#331