注(4) 侠西省考古研究所『五代黄壁窯祉』文物出版社、1997年(5)顕徳5年(958)に埋葬された清輝墓から杯・托が出土している。(6)小山富士夫『支那青磁史考』文中堂出版、1943年(7) 『茶経』「四の器Jに「越姿類玉」の記載がある。100年近くの聞きがあり、直接的な影響は考えられないが、復古的な意識で五代の天青( 1) 険西省考古研究所『唐代黄壁窯壮J文物出版社、1992年(2) 成通15年(873)に唐皇帝・信宗によって献納された。共伴する『衣物帳』(献納物台帳)の記載(3) 口縁がやや外反し、蛇目高台の幅が狭く、胴部には輪花を施す形態は9世紀後半期に見られる。汝窯青査の特徴である美しい天青柚と全面施紬された外底面に残る微少な目跡は〔図14〕、五代・耀州窯のII.皿・N類に見られる特徴と共通性が高い。また焼成技術も、素焼きと薪燃料の使用といった点が五代の耀州窯と共通する。両者には年代的に紬青査の模倣が行なわれ、その技術が再現された可能性が高いのである(注9)。素焼き・天青紬;などの汝窯の技術は北宋最末期頃に、河南省汝ナトI.張公巷窯で複数回の低温焼成を行ないながら何度か施紬し、最後に高温焼成を行なって粕層を厚くする、多重紬掛けの技術を生み出した(注10)。この技術と、汝窯の意匠は、宋朝の南遷に伴って聞かれた南宋官窯で、江南の青姿技術と組み合わされて南宋官窯青査を生み出す。さらに、南宋官窯の影響を強く受けた龍泉窯の紛青色青姿(日本でいう砧青磁)に応用され、江南の青室生産技術を大きく発展させたのである。また、華北では鈎窯に汝窯の技術が引き継がれ、金・元代に大きく開花した。5 まとめ初期の耀州窯青姿は、意匠的には越州窯の影響を強く受けたが、生産技術は華北の伝統的な陶姿生産技術を基にしたものであり、五代末期には意匠・技術ともに独自性の強い青査を生み出した。北宋末期には、その技術・意匠が華北の名窯・汝窯を生み出し、南宋代には、中国における青室生産の中心であった江南に伝わり、青套の生産技術を大きく発展させた。このように、耀州窯青査は、青査が唐代から宋代にかけて発展し、華南・華北で名窯が輩出する過程において、両地域に意匠・技術の系譜を伝える結節点ともいえる重要な役割を果したのである。から、当時「秘色」と呼ばれた青姿であることが明らかとなった。険西省法門寺考古隊「扶風法門寺塔唐代地宮発掘筒報j『文物』1988-10、1988年ほか森達也「越窯青姿碗的両個体系」『i折江省文物考古研究所学刊第五輯』杭州出版社、2002年成陽市文物考古研究所『五代鴻障墓』重慶出版社、2001年322-
元のページ ../index.html#332