鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑪ 世界地図扉風の地図化研究者:コロンピア大学大学院博士課程初めに世界地図扉風は、1540年代に西洋人が初めて日本を訪れたとき制作されたものである。地図扉風には、西洋の地図作成法に基づいて作成された地図に加えて、西洋の商人と船、世界中の人々、そして舶来の版画、絵入りの本、航海用海図などに現れる西洋人の生活の様子に関する様々なイメージが描かれている。しかし注意深く見ると、これら全ての西洋を起源とするイメージは、紛れも無く日本の視覚言語に変形されていることが分かる。西洋と日本のこのような融合は、東アジアには前例がなかったことであり、その結果として生み出された様々な作品は、既存の美術史の範障や分類にはうまく適合しないものであった。日本が西洋と初めて対峠したときに生まれたこれらの作品は、空間や地理に関する固有の認識論に挑むことになった。そしてまた、中国及び韓国の文化を日本が取り入れた文化受容の理論的モデルでも十分に説明しきれるものではない。本稿においては、まず初めに、世界地図扉風およびそれに関連する作品とその主題を紹介し、次に、美術史と文化研究の新たな可能性を聞く場として世界地図扉風を考える際に生じるいくつかの間題を提起したい。紙幅の制約上、本稿ではとりわけ歴史的側面と研究の主題としての扉風に焦点をあて、方法論上の問題を論じたい。想像された場所、視線の構築:地図扉風日本人と西洋人が初めて出会った時の話は良く知られている。天文11年(1543)の初秋、中国のジヤンク船に乗り旅行をしていた数多くのポルトガル貿易商が日本の南方で遭難した。この時以来日本は、概念上、東アジア大陸の領域内、インドの周辺、ベルシャ、中国よりも遥か彼方にある固として明確に位置づけられた。しかし、一見するとそれほど重要ではないように思われるこれらの厭世的ポルトガル人の到来は、実は大きな意味をもっ出来事だったといえる。なぜ、なら、これまで別々の時間軸、空間軸に存在していた日本人と西洋人は、この時まさに初めて出会うことになったからである。ポルトガル貿易商とその直後に到来した宣教師らは、不安定で分裂している当時の日本の政治状況と、あいつぐ戦争に疲弊し、政治的策略に翻弄されていた住民達を大いに利用した。その後、数百年間にわたって、西日本における西洋人の滞在は隆盛を-327-ジョセフ・ロー(JosephLoh)

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