鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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極め、17世紀にはそのピークに達した。黒いポルトガル船は長崎では普通に見られるようになり、この港は活気ある一大国際都市へと変貌を遂げた。西洋商人の勢力拡大に伴って、宣教師コミュニティーもまた著しい繁栄を謡歌した。天文17年(1549)に到来したフランシスコ・ザピエルをはじめとして、イエズス会やフランシスコ会の修道士達は西日本一帯においてあらゆる社会的階層の人々に対して自らの信仰を普及させていった。しかし、17世紀初頭、徳川幕府は、キリスト宣教師を新政権の社会的秩序の転覆を企てる危険な存在とみなし、迫害政策を推し進めた。慶長16年(1612)に始まり、寛永16年(1640)には最も強化された彼らに対する迫害政策は、反キリスト教の厳格な取り締まりとキリスト教禁止令を基盤としていた。この時までには、西洋との貿易と文化的接触はわずかな例外を除いて途絶えてしまった。鎖国政策が1640年に達成されると、日本と西ヨーロッパは必然、的に再び別の時間・空間軸に存在することになった。このようなほんの短期間に生まれた文化的接触の産物は、しかしながら、キリスト教の十字架をモチーフとする陶磁器、聖マリアを描いた掛軸、そしてバロック様式の装飾を持つ漆絵なと守広範囲に渡っている(注1)。日本の絵師達は、南蛮扉風と呼ばれる大きな扉風を制作したが、それには、当時の日本の活気に満ちた港町を、自国の衣服を身にまとった西洋の貿易商と宣教師が、疑わしそうな目で彼らを眺める日本人の前を行進していく様子が描かれている。南蛮扉風は、当時の日本の港町における日本人と西洋人の接触の様子を示すものとしてよく知られているが、西洋の地図作成法に基づいた世界図を主題とした世界図扉風は、日本と西洋が1530年から1640年というほんの短期間の接触を最も凝縮した形で表現しているという点において、一層興味深いものである。無名の日本の絵師達がこの扉風を作り始めたのは1540年代に初めて西洋人が日本に到来した後であるが、さらに西洋人のコミュニュテイが追放され1640年代にキリスト教が禁止されたのち18世紀にいたるまで、扉風は引き続き制作された。日本の絵師達は、西洋の地図を主題として扱う一方で、西洋の絵本と版画を組み合わせたイメージを用いて、想像の世界の多様かつ鮮明なモンタージュの創造に取り組んだ。そのような多様なイメージとしては、例えば世界中の都市図のほか、様々な大陸の人種を描いたもの、遠い国の戦争の様子、馬に乗った神秘的な異国の統治者の肖像といったものが挙げられる。こういったものを主題として取り扱う際に、絵師達は、どのようにモチーフを組み合わせるか、あるいはどのように色や椋を使用するかといったことを含めて、絵画的要素を自由に解釈し詳述し、時には、全く別のものへと変形させていった。日本のみならず世界中の博物館や個人所有者が持つ作品を合計すると、328

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