およそ30の地図扉風が存在する。その例として、宮内庁三の丸尚蔵館本「万国絵図扉風:二十八都市・世界図扉風」、香雪美術館本「レパント戦闘図・世界地図扉風」、神戸市立博物館本「世界四大洲・四十八国人物図扉風」、そして出光美術館本「世界地図・人物図扉風」等を挙げることができる。注目すべきは、西洋の貿易商達の関心は、新しい市場の開拓という物質的なものにすぎなかったのに対して、宣教師達は自らの信仰を広めつつ、西洋の学問、習慣、芸術を通じて日本人に新しい世界を紹介するという文化の橋渡し役を務めていたという点である。芸術家を育てるために、イエズス会は日本、中国、ゴア、そしてパラグアイなど世界の各地に美術学校を設立した。こういった学問施設が植民地や非キリスト教社会に及ぼした影響は非常に大きなものであり、そこで制作された、絵画、彫刻、版画、祭壇画は、使節団の需要だけでなく、より広範な美術市場の需要をも満たしていた。この使節団が設立した教育施設において、地図扉風を作成した日本の絵師達も含めて、芸術家達は、非西洋の伝統を取り入れることを可能にするような様式と技法の創造的な統合を試みた。このような主題、様式、そして技術の組み合わせは、後期ルネッサンス及びバロック美術において、豊かで多様な“ニュー・ダイアレクト”を形成することになった(注2)。17世紀初期にセミナリオで教育をうけた日本の絵師達は、自発的に西洋的主題の選択や様式の模倣を行ったのか、あるいは単にそのように指導されただけなのかは定かではない。しかし彼らが、当時の西洋の文化的領域を支配していた知的、科学的言説からは隔絶されたままであったことは明白である。その代わり、芸術家らは西洋の宗教的なモチーフ、地図作成技法、そして世俗的なイメージを、伝統的な日本文化や当時の歴史的状況に固有の視覚的言説の方法に従って解釈し、すなわち既存の日本の認識論的枠組みと造形言語を用いることによって、新しい独自の知の領域を提示することとなった。地図扉風が西洋とアジアの文化交流の歴史にとって重要で、あるのは、西洋と日本の文化的融合に関する最も早い時期の、最も明確な、そして最も興味深い事例だからである。そして美術史研究者にとっては、制作された当時の桃山・江戸時代の空間認識、視覚制度、そしてその表象のシステムを示唆してくれるという点において、地図扉風は一層意義深いものとなる。!弄風がどのようにして視覚的な構築物となるかを理解することによって、日本だけでなく西洋においても空間がどのようにしてイメージされ認識され、表現されてきたかが明らかになるだろう。絵画においては見ることができたとしても、直接体験することはできない海の向こう側の世界に関する情報を、日本の芸術家がどのように消化、吸収していったのかに関する手がかりを、このイメージ329-
元のページ ../index.html#339