がモンテスキューの肖像画を描いていることや(YMSM3981891 -94)、デュレから聞いたホイスラーの奇行について触れているが、この画家を相当な変わり者と思って敬遠したのだろうか、ジャーナルにはこの時期に林忠正の名前が頻繁に出てくるにも関わらず、この二人が同席したというような記述を見つけることはできなかった(注19)。日本美術への興味をホイスラーと共有したフランス人として、ロベール・ド・モンテスキューが挙げられる。二人は1885年7月に出会っており(注20)、モンテスキューは1888年に「ジャポネズリー」を見にくるようにとホイスラーを自宅に招いている(注21)。その後、ホイスラーに盆栽をプレゼントしたようで、彼の日本人の庭師「HataJが盆栽を勇定することについて手紙で触れている(注22)。また、モンテスキューは、差し出した手紙の封筒に、広重の名所図絵の一枚を思わせるような、富士山の絵を書いたりしているが〔図3〕(注23)、これはホイスラーも〈金扉風〉の中に描いている広重の〈六十余州名所図会〉のうちの〈大隅さくらじま〉にも良く似ているのである。さらに、ホイスラーは山本芳水とともに、モンテスキューの詩集『嘱幅Jの挿絵を描いており、この二人が面識があったとしても不思議で、はないが、現在のところ詳しい資料は見つかっておらず、今後の更なる調査が必要である(注24)。今回の調査で、パリを拠点として活動していた日本人とホイスラーの直接のコンタクトを確認することはできなかった。パリへ留学していた久米桂一郎が、白馬会誌『光風Jに3回に渡ってホイスラーに関する伝記的記事を掲載しているが(注25)、これは、デュレによるホイスラーの伝記、Histoirede J. McN. Whistler et de son ≪uvre (注26)ように思われる。また、久米の記事で引用されている手紙のほとんどが、ホイスラーがファンタン=ラトウールに宛てた手紙であり、久米の情報源がフランスであったことを示唆している。久米がデュレを知っていたならば、ホイスラーと出会っている可能性も考えられるだろう。ホイスラーは、1890年にロンドンのアセニアム倶楽部で金子堅太郎と会っていることが、筆者が調査した結果分かった。金子が1889年(明治22)に制定されたばかりの帝国憲法の説明と、議会制度の調査を目的として、同年7月から翌年5月までの約一年間ヨーロッパに滞在していたときのことである(注28)。このとき、ホイスラーは金子に日本美術について熱心に質問し、誰かその疑問について説明することのできる日本人の芸術家はいないだろうか、と尋ねたという(注29)。このことについては、稿を改めて、さらに詳しく論じたいと思うが、金子の証言から、ホイスラーは日本美術について、日本人から知識を得たいと思っていたことが分かる。従って、パリの日本美や'ArtistesAnglais. James Whistler' (Gazette des Beaux Arts) (注27)を参考にしている24
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