の厳密な取捨選択に基づいた、日本の絵画の伝統と西洋の版画及び地図作成法の組み合わせである地図扉風は与えてくれる。扉風は、17世紀及び18世紀の日本人の世界の見方、世界へのまなざしを理解するための一つの手段を提供しているのである。地図扉風の制作以前は、このように西洋と日本文化が融合した例は全く見られなかった。この二つの視覚制度を比較対照することにおいて、双方の認識論的枠組の理解と、芸術の概念と実践の的確な分析の場が生まれるのである。世界地図扉風学の研究ポルトガルの海洋学の歴史、ヨーロッパ諸国の海外進出とアジア貿易、そしてこの時代の西洋地図作成学に関しては、数多くの文献がある。地図学及び地図作成法の歴史についても、既に数多くの研究がなされている。近年では、版画と大衆文化の関連を探り、認識論的なあるいはイデオロギー的な構築物としての地図制作に注目した研究が新たに出現してきている。しかし、日本の地図扉風に関する集約的かつ広範囲に渡る分析は未だ行われていない。地理学者と地図学者が地図扉風に関する研究を開始した当初、彼らはとりわけ科学としての日本の地図作成法の発展と関連づけ、“地図”としての価値を強調した。地図に関する広範囲な調査や研究を行った学者としては、例えば、芦田伊人、中村拓、黒田日出男、織田武雄、室賀信夫、そして海野一隆を挙げることができる。初期の美術史学においては、様式上の問題と作者や制作年の特定に焦点が置かれていた(注3)。こういった研究においては、イメージの参照源や先行作品を特定することによって、公的に規定された“類型”へと扉風を分類するという作業が行われてきた。その結果、美術史においては、地図扉風は日本の「偉大なる芸術」の規範の外に位置づけられ、伝統的な美術史研究の領域においては過小評価されてきた。しかし、地図学において扉風がとりあげられ、広範な美術史調査が行われるにつれて、とりわけ日本美術の造形表現や画法の実践との関連において、地理や空間の解釈の方法や解釈の政治性といった、扉風の多様な側面が看過されていたことが明らかになってきた。地図扉風は、南蛮扉風のような他の作品と同様に、視覚的言説の形成に関する興味深い事例の一つであると言える。だが、美術史研究者らは伝統的な美術史分類に異議を唱えるような作品については、例えば“南蛮文化”、“南蛮美術”或いは“異国の美術史”といった見出しのもと、独自の分類を行わざるを得なかった。なぜならば、扉風は日本人によって作成されたにも関わらず、日本の美術としても、西洋の美術としても分類することができなかったからである(注4)。扉風はしばしば制度外の領域と330
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