ところで、日本の地図学及び地図作成法に関する歴史の研究においては、日本の地図作成とその解釈には、長い歴史と様々な方法があることが指摘されている。地図は、寺の境内・荘園・開田図・そして開墾地図(例えば、『東大寺山境四至図〈天平勝宝8年(756)、正倉院〉』、『越前国道守村開団地図〈天平神護8年(766)、正倉院〉』)といった現存する初期の公的な地図に始まり、7世紀後期及び8世紀初頭に作成された行基式日本図、仏教に関する地図(最も有名なものとしては、『五天竺図{14世紀、法隆寺〉』)、受茶羅、神道蔓茶羅、そして江戸時代の洛中洛外国扉風、地域地図、そして国内旅行や巡礼旅行のために使われた大衆向けの版画地図等、様々な種類の地図様式が存在する。以上の例が示すように、地図の種類と地図作成法は、多様な視覚的言説の領域から生まれ、また特定の歴史的状況に起因するものであり、そしてこういった地図はそれぞ、れある特定の意図や目的をもって制作されたものである。注目すべきは、地図の様式が、その制作の意図や読解の目的によってそれぞれ異なる点である。それは、例えば、絵巻物、障扉画、掛物、或いは絵解き図などの場合と同様で、ある。日本美術においては、描かれた主題とその表現媒体との結びつきや、それぞれ固有の鑑賞方法における観者とその表現媒体との結びつきにおいて、それぞれの表現形式が独自の絵画的慣習を持っているからである。21世紀初頭に生きる人々の多くにとって、16世紀・17世紀の西洋の地図は地球の形を科学的に“忠実”且つ“正確に”表現したものに思われる一方で、西洋の地図作成方式に基づいた地図が紹介される以前に作成された日本の地図は、非合理的で、風変わり、あるいは異国風なものに見えてしまうだろう。しかしそのような見解を抱くことは、イタリアのルネッサンスを起源とし、啓蒙時代と西洋の科学革命の後に確立した認識のパターン、価値観、美的規範に束縛されることに他ならない。しかし、地図に関する日本と西洋の差異や対照的な構成原理を認識することによって、そのような限定的な視点から逃れることができる。日本及び西洋の地図作成法が別々の概念的・歴史的遺産に起因するという事実はまた、2つの異なる知的遺産が、初めて融合し、記録され、表象される場としての機能をもっという扉風の重要性を証明することになる。そしてまた、既存の日本の地図様式と地図作成及び地図読解の実践が、16世紀以降に西洋の地図が紹介された後も存続していたならば、日本人の独自の世界観と地理的な想像力ともいうべきもの、そしてそれらが果たしていた特定の機能や目的もまた証明されることになる。日本独自の地図と地理的な描写は、風俗画における人物描写にはじまり、地域としての、一つの集合体としての、あるいは世界的-332-
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