鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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術愛好家たちを通して、日本人との交流を持っていたとしても不思議ではない。むすび英仏海峡を往来する「クロス・チャンネル」の画家として活躍したホイスラーの書簡は、膨大な数に及ぶ。今後新しい資料が発見される可能性も否定できないが、現時点で、日本との関係に注目して書簡全体を見渡すと、フランスの日本美術愛好家とのつながりが大変興味深いことがわかる。ホイスラーは、生前多くの講演を行い、著述も多数であったが、日本美術理解について、公の場で具体的なことは述べてはいない。例えば、『10時の講演』の末文、「美の物語はパルテノンの大理石が刻まれ、北斎が扇の富士山の麓に鳥の刺繍をした時にすでに完成している」は、一見謎めいた文章である。しかし、長年の親友、ファンタン=ラトウールとの聞に交わされた、極めて私的な手紙によって、この一文の意味を明らかにすることができる。先に引用した手紙を読むと、ホイスラーの色彩に対する理解から、「刺繍」という言葉を使用したことが分かるのである。すでに指摘したように、ホイスラーの日本美術の色彩理解が、独自のスタイルを確立する上で、重要な役割を果たしたといえるだろう。ホイスラーは代表作ともいえるいくつかの異国情緒溢れる作品を1860年代に制作し、〈ノックターン〉によって写実を超えた世界を描いたが、画家はこの時期に知識として日本美術を求めていたというよりは、むしろ視覚的に芸術的なインスピレーションを求めていたのだろう。1860年代、欧米における日本人の数や日本に関する情報量は1880年代後半や90年代に比べると少なく、画家にとって、まだまだ遠い異国であったに違いない。それだけに、芸術創作のためのインスビレーションを強く受けたとも考えられるのではないだろうか。しかし、書簡を紐解いてみると、1880年以降もパリの日本美術愛好家たちとの交流を積極的に持ち、日本美術に興味を抱いていた画家の心は、晩年に至るまで変わることがなかったことが分かる。今回の調査で、書簡という極めて私的な資料に、様々な人的交流を持っていた画家の、日本への尽きぬ思いを垣間見ることができた。また、ホイスラーの交友関係がかなり明らかとなったため、今後、そのような人物たちについても詳しく調査し、ホイスラーの日本人との交流の可能性などについて、更に研究を進めたい。凡例JW: Jam巴SMcNeill Whistler (1834-1903). 25 -

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