鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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〈UハU−ιυ 内⑧ アルフォンソニ世とサン・フリアン・デ・口ス・プラードス聖堂壁画一一アス卜ウリアスにおける人物像の不在研究者:筑波大学大学院芸術学研究科博士課程単位修得満期退学はじめにアルフォンソ二世が献堂した代表的な建築物であるサン・フリアン・デ・ロス・プラードス聖堂(通称サントゥリャーノ)の壁画は、アストゥリアス時代の美術の貴重な一例である。この時代を通じて人物像が見られない傾向を最初に指摘したのは、スペイン初期中世美術の碩学ゴメス・モレーノであった(注1)。本論文は、この壁画に見られるそうした特徴をその前後の時代、及び、同時代であるカロリング朝の作例を通して情服的に考察する。アルフォンソ二世とサントゥリャーノアルフォンソ二世(在位791842年)は、アストゥリアスの首都をプラピアからオピエドに移すとともに、王宮およびそれに関連する施設、さらに多くの宗教建築をそこに普請した人物であった。彼は、オピエドの中心地に「救世主と十二使徒に捧げた大聖堂」、その北に「三祭壇を持つ聖母マリアのための礼拝堂j、そして聖堂の南に「サン・テイルソ聖堂J(部分のみ現存)という三つの教会を隣接させて置いた(注2)。後代の記録である『アルベルダ年代記j(883年)は、これらの建物が全て大理石の柱や金銀、絵画によって装飾された様子を伝えている(注3)。現存するサントゥリャーノの壁画からは、この『アルベルダ年代記Jの記述のうちで壁面を「絵画」によって装飾しているという特徴のみが現在把握できる。ほかにアルフォンソ三世の創建による聖堂で現存するものでフレスコ壁画の下地となる漆喰が見られる、つまり壁画を描きえる壁体を持っているものとしては、カマラ・サン夕、サンタ・マリア・デ・ベンドーネス聖堂などがある。しかし、残念ながらこの中で当時の壁画が断片的に残っているのはサンタ・マリア・デ・ベンドーネス聖堂だけであり(注4)、その全体像を把握できるのは唯一サントゥリャーノの壁画だけである。本論文の考察のために中心作例とするサントゥリャーノは、アルフォンソ二世によって812-842年にオピエド市壁外に自身の宮廷礼拝堂として建てられた。その聖堂の翼廊部及び身廊部に、アストゥリアス時代には例をみない大画面構成の図像プログラムを持つ(注5)。太田博子

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