鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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306年に行われたエルピラ教会会議のカノンをまずは取り上げる必要があるだろう。こントゥリャーノの十字架図像とは異なる形状(末広がりのアーム、ギリシャ十字形)であるものの、貴石で装飾される点、またその貴石の数カ'i'48である点がサントゥリャーノの十字架図像と一致する(注13)。十字架図像自体はアルフォンソ二世時代だけでなくアストゥリアス時代を通してよく見受けられる図像であり、後代の王たちが自分たちのエンプレムとしたものである(注14)。では、そのアストゥリアスの十字架図像は何から影響を受けたのだろうか。アルフォンソ二世時代前後ここではアストゥリアス美術に影響を及ぼしたとされるその前時代の西ゴート王国、そしてアルフォンソ二世の後のアストゥリアス王たちの寄進した作例を通じ、アルフォンソ二世期の人物像表現の不在について考察する。前に引用した『アルベルダ年代記Jもサントゥリャーノにおける西ゴートとの連続性を強調するものとなっている(注15)。偶像がないという問題については、ローマ支配下にあったイスパニアにおいて、30。れは、「絵画は教会に存在せず」と題した偶像崇拝を戒めるカノン36「教会には絵画はない。教会に絵画を置くべきではない。崇め、畏れる神は、壁には描写されえないものであるJ(注目)一ーを持っている。また、第12回(681年)、第16回トレド教会会議(693年)においても、それぞれ、偶像を持つことに反対するカノンが記録されている(注17)。また、西ゴート時代の偶像に関連する記述として、638年に聞かれた第6回トレド教会会議の記録冒頭の「全能なる目に見えぬ(invisibili)栄光と名誉を持つj神への呼びかけ(注18)、そして656年の第10回トレド教会会議の冒頭の「目に見えぬ神」(“invisibiliDeoつへの呼びかけがある(注19)。それを反映して、西ゴートの作例においては、キリスト教美術では一般的な表現である天から差し出された手をもって神をあらわす方法がみとめられる。イベリア半島内でもサモラのサン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ聖堂(7世紀)の〈イサクの犠牲〉の柱頭装飾に見られる(注20)。しかし、西ゴートの作例には、先にあげたサン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ聖堂のほかの柱頭装飾(〈獅子の穴の中のダニエル〉や使徒像など)や、ブルゴスのキンタニーリヤ・デ・ラス・ピーニャス聖堂の浮彫装飾(7世紀後半)〔図4〕(注21)があり、サントゥリャーノのように徹底的に人物像表現を拒否する姿勢は見あたらない。ま352

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