た、西ゴートにおいては、壁面を飾るのは主に浮彫であり、サントゥリャーノの壁画のような大規模な図像プログラムは残存せず、壁画自体の存在も認められないのである(注22)。だが、十字架図像というモチーフを重視するという点では、サントゥリャーノと西ゴートとの連続性が認められる。貴石を模して装飾されたサントゥリャーノの十字架表現は、西ゴート時代、西ゴート王や貴族らが聖堂に寄進した金工品〔図5〕(注23)を想起させる。サントゥリャーノの十字架は壁画であらわされたものであるが、アルフォンソ二世が808年に〈天使の十字架〉をオピエド聖堂に奉献したことも西ゴート王たちに倣ったことと思われる(注24)。十字架というものがキリスト教において最も重要な徴であるのは当然である。しかし、同じ形式の十字架が繰り返され、かっそれ以外の崇拝対象となるモチーフが継承されていないという現象はアルフォンソ二世時代にしか見られないのである。アルフォンソ二世の治世が終わり、ラミロ一世によって建設された建築群には人物像が見られるようになってくる。ラミロ一世(在位842-850年)は、自分の離宮としてオピエド郊タトにサンタ・マリア・デ・ナランコ宮(以下ナランコ)、そのそばに宮廷礼拝堂としてサン・ミゲル・デ・リーニョ(以下リーニョ)を建造した。ナランコには、建築装飾の中に人をかたどった柱頭装飾〔図6〕やメダイヨンが内部に存在し、また、リーニョの側廊南壁にも人物像が描かれている〔図7〕(注25)だけでなく、人物モチーフが建築装飾に繰り返し用いられている(注26)。サン・サルパドール・デ・パルデデイオス聖堂(893年アルフォンソ三世の献堂)には、リーニョのように壁面に人物像が描かれた痕跡が残っている(注27)。一方で、十字架図像は、アストゥリアス時代を通じて聖堂以外でも多くのモニュメントに活用されることになった。アルフォンソ三世時代には王のエンプレムとしての機能を兼ね備えた十字架図像がオピエド市壁の門など公的な場所に据え付けられてあった(注28)。10世紀に入ると十字架及び装飾文様だけではなく、四福音書記者の象徴が入っている〈璃瑠の函〉底部(910年奉献)〔図8〕(注29)、そしていわゆるベアトゥス写本群〔図9〕(注30)に見られるように、多様な図像モチーフを利用するようになる。こうした後代の作例を見ると、アルフォンソ二世の作例(現存する作例が少ないとはいえ)、とりわけ大規模な図像プログラムを持つサントゥリャーノに全く人物像が存在しないことは奇妙である。では、西ゴートにはない要素はどこから由来したものであろうか。-353
元のページ ../index.html#363