鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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⑩ 中園田川省出土阿育王像に関する調査研究一一阿育王像説話の成立と南北朝時代の造像を中心に一一研究者:早稲田大学非常勤講師金子典正はじめに四川省成都市からは「阿育王像」「育王像」という刻銘を有する6世紀の仏像が出土している。周知のように阿育王とは紀元前3世紀インドマウリヤ王朝第3代アショーカ王のことである。仏法に帰依して第三結集を行うなど大外護者となった王は、理想的な崇仏治世者として伝説化され、西晋安法欽訳の『阿育王伝』等の諸経典によって中国に伝えられた。とくに鬼神を使役して一日のうちに八万四千基の仏舎利塔を建立したという仏塔建立伝説は広く流布し、南北朝時代には中国にも阿育王塔が存在するという説話が語られた。阿育王像とは、王の肖像彫刻ではなく、王が造った仏像を指す(注1)。但し、古代インド史上には当該資料がなく、王の造像が史実として認められないのは衆目の一致するところである。しかし古代中国では、阿育王塔のように阿育王像も伝来したと語られ、それに由来する仏像が制作された。阿育王像の作例は本研究で取りあげる南北朝時代の四川出土像が最も古く、唐代の龍門石窟や敦憧石窟壁画にもみられる。文献上では『高僧伝』『梁書』『集神州、|三宝感通録』など主に南北朝時代以後の史料に散見するが、それらは全て中国側の史料である。すなわち中国に於いて阿育王像の説話が創作されて、説話の流布によって造像が行われたことになろうが、私は寡聞にしてこの問題に論及した研究を知らない。そこで本研究では、中国に於ける阿育王像説話の成立と南北朝時代の造像例について考察し、四川省から出土した阿育王像の制作背景の解明を試みた。1.四川省出土阿育王像についてまず調査結果を踏まえながら四川出土像を確認しておきたい。現在、南北朝時代の阿育王像は2体確認されており、四川省博物館と成都市文物考古研究所に所蔵されている(注2)。博物館所蔵の阿育王像〔図1〕は光諸8年(1882)に成都市内の万仏寺社(注3)から出土した。本像は、頭部および両腕・両足先を欠失した如来立像で(注4)、像高132センチ、衣を通肩にまとい、首回りの折返し部分が平板で規則的な襲が刻まれ、衣文線が正面でU字形を描いて彫出される。左肘から垂下する衣の前面には太い縦線の衣襲が刻まれ、同様の衣襲は膝下の足聞にも刻まれる。背面の膝高辺りに-361

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