2.『高僧伝J記載の阿育王像説話の捉え方について「口州総棺柱国/超国公招造/阿育王像一躯」と陰刻銘があり、造像年代を明記しないが、超国公招は『周書Jによると保定2年(562)に益州総官に任じられているので、本像の制作年代は保定2年から間もない頃と考えられている。なお、この北周像とほぼ同様の衣文の特徴をもっ無銘如来立像が万仏寺社から4体出土しており、そのうち3体を実見する機会に恵まれた。うち1体は以前に中国国宝展で出品された知来立像だが〔図2〕、北周像とは顕著に異なる点がみられる。首回りの衣の折返し部分の表現である。北周像は折返し部分のほほ正中線上に角があらわされているが、これに対して無銘如来立像は3体とも角が正中線からやや右側のところにあった。これは明らかに3体が同一粉本に拠っていることを物語り、北周像から感じ取れる幾分硬直した形式的表現を顧慮するならば、無銘像の制作年代は北周像を遡る可能性が考えられる。これについては成都市文物考古研究所所蔵の梁代の阿育王像に注目したい。1995年に成都市内の西安路から出土した阿育王像〔図3〕は、像高60センチ、正面の衣文、左肘下と足聞の衣装は北周像と同一である。しかし首回りの折返し部分は正中線より右側のところに角がある。これは先の無銘立像と一致しており〔図4〕、型が守られていることが分かる。本像は背面の膝裏から地付部にかけて「太清五年/九月世日/仏弟子杜僧逸為亡児李/仏施敬造育王像供養/願存亡春属在所生処/値仏間法早悟無生七/世因縁及六道含令普/同斯誓謹/口」と陰刻銘があり、梁の太清5年(551)に制作された阿育王像であることが分かる。両肘先を欠失するが、ガンダーラ仏を思わせる髭を生やした頭部をともない、本像の発見によって四川省博物館所蔵のガンダーラ風如来頭部〔図5〕が無銘如来立像とー具であったと判じられている。ともあれ、本像が亡き息子の為の供養像であることは、梁代末期には阿育王像の造像が一般に行われていたことを窺わせる。また、同一粉本に拠っているとみられる仏像が複数存在し、型崩れが生じてないことを勘案するならば、これらは造像が顕著になって問もない頃の作例と考えて良いのではなかろうか。阿育王像の説話を収録する文献として、梁代の会稽嘉祥寺慧岐(497〜537)が撰述した『高僧伝Jがあげられる。なお、説話は『集神州三宝感通録』など唐代の文献にも多数収録されているが、内容の加飾偽作が見受けられ、また本論では南北朝時代の阿育王像を考察対象とするので、とくに取りあげないことにする。さて、説話成立を考察する際に重要な示唆を与えてくれるのが、『高僧伝』における慧岐の撰述基本姿勢である(注5)。慧肢は巻第十四序録に「凡そ十科の叙する所、皆362
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