衆記に散在す。今ただ剛乗す。故に述べて作る無し。」(注6)と記し、本書の十科は散在した諸記録を集めて述べるだけで作らない、という。序録には劉義慶(403〜44)『宣験記』『幽明録』、南斉の王政『冥祥記』、僧祐(445〜518)『出三蔵記集』、梁の宝唱『名僧伝』など現存文献の他に、現亡の僧伝や応験記など合わせて19書が列記され、慧佼はこれらに別伝や碑文の類を参照し、史書雑録を捜索、さらに古老先達を訪ねて事の有無や同異を踏まえて『高僧伝』を撰述したという。つまり、事績の取捨選択及ぴ内容訂正はあっても、慧絞自身が大幅に偽作改変をした可能性は極めて低い。よって、以下にあげる阿育王像説話は、先行史料が見当たらない場合でも、梁代を遡る可能性が高いことをはじめに指摘しておく。『高僧伝』収録の阿育王像説話として、まず巻第五釈曇翼伝があげられる(注7)。その骨子は、長沙太守が江陵の宅を捨てて寺と為し、道安(312〜85)に僧を請うた為、曇翼は推されて江陵に向い長沙寺を締構した。乱によって一時湖北に避けたが、戻るや寺を修造し、間もなく舎利を感得した。そして「寺立ち僧足るも、形像尚少し。阿育王の造る所の容儀神瑞、皆多く諸方に布在す。何ぞ其れ感無くして、招致するに能はざる。jといい、一心に祈願したところ、東晋太元19年(394)にl体の仏像が城北に忽然と出現し、阿育王像を感得した。後に易から来た粛賓僧の僧伽難陀が光背の党字を「阿育王像」と判読したという。曇翼が舎利を感得してからの記述は、無論史実として認めることはできない。管見によれば、先行史料は見当たらず、扇賓僧の僧伽難陀も他の史料には確認できないが、こうした説話の背景には、荊州江陵の辛寺(新寺)の存在が想起される。辛寺は法顕(335〜421?)が卒した寺で、元嘉年間(424〜53)には曇摩耶舎、求那蹴陀羅、f弗駄蹴陀羅など多数の外来憎が活躍した。なかでも求那肢陀羅は同寺で『無憂王経.I(無憂王=阿育王)を訳出しており(注8)、荊州における説話成立の下地は十分に整っていたといえる。なお本伝では説話の構成が造寺、舎利感得、阿育王像感得であることを指摘しておきたい。次は巻第六の釈慧遠伝である(注9)。伝によると、昔薄陽の陶侃が広州を鎮めた時、海中に阿育王像を発見し、持ち帰って武昌寒渓寺に安置した。やがて寺は火災に遭うものの像は焼け残り、陶侃が鎮を移す際に像を動かそうとするも叶わない。しかし慧遠(334〜416)が寺を建てるや像は飛来したという。この阿育王像は後の史料では文殊菩薩像と記され、長沙寺の阿育王像と並び称されるが、これについても先行史料は見当たらない。3.阿育王像説話の成立について-363-
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