鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
374/592

次に当該記事と思われるのが、巻第九竺仏図澄(232〜348)伝の以下の記述である。「虎、臨津に於いて旧塔を修治し、承露盤を欠く。澄日く、臨泊城内に古の阿育王塔あり。地中に承露盤及び仏像あり。(中略)。言に依って掘り取り、果して盤像を得たり。」(注10)とあり、ここには阿育王像とは記さぬが、阿育王塔と仏像が共に語られる点は留意すべきであろう。なお、同様の記事は僧祐の『弘明集』巻二「明仏論」にみえ、注目に値するのは、臨泊阿育王塔に続けて、河東浦にも阿育王塔祉があって仏舎利が発見されたと記されている。典拠は不明だが、宋劉義慶の『宣験記』と南斉王政の『冥祥記』には、河東浦にかつて精舎があり、城中が大火災で失われた際、精舎と経像だけは焼け残ったという記事がある(注11)。こうした内容が加飾されて、臨泊や河東浦の阿育王塔説話が生じたのであろう。最後に巻第十三釈慧達伝があげられる(注12)。慧達は31歳の時、臨死体験に遭遇して地獄の苦報を経験し、道に入り丹陽・会稽・呉郡の阿育王塔像を礼拝憐悔するように一道人から告げられた。蘇生後に出家した慧達はまず晋の寧康中(373〜75)に丹陽へ行き、長干寺の塔下から仏舎利を発見した。阿育王塔の仏舎利であるという。これを遡る成和年間(326〜34)、丹陽の長官高哩が張侯橋浦でl体の金像を得た。光背台座は無いものの像のっくりが巧妙で、前面に党字で「阿育王第四女の造る所なり」とあり、長干寺に安置された。一年後に台座が発見され、5人の西域僧がいうには、昔インドで得た阿育王像であり、もとは光背があった、と。その光背は威安元年(371)に交州で発見され、慧達は光背台座が揃った像を礼拝して益々修行に勤めた。次に呉郡の玄通寺に行き、西晋の時に松江で発見された2体の石像(背中に「惟衛j「迦葉Jの過去七仏銘が有る霊像)を礼拝し、最後に会稽へ行って都県の阿育王塔を礼拝修造したという。この先行史料としては、南斉王珠の『冥祥記』があげられる。ほぼ同内容だが、注目されるのは同書慧達伝の次の記述である。「、洛陽、臨泊、建業、鄭陰、成都、五処並有阿育王塔。又呉中両石像、育王所使鬼神造也jとあり(注13)、すなわち洛陽以下の五箇所に阿育王塔があり、呉の2体の石像は阿育王が鬼神を使って造らせたものであるという。王政が「呉中両石像、育王所使鬼神造也jと記しているからには、阿育王像の説話が南斉時代まで遡ることは明らかであろう。ところで、慧岐は巻第十三興福篇の最後に論賛を付して、憂填王の栴檀像から説き起こして分舎利までを叙述した後に「その後百余年、阿育王使を遣わして海に浮ぴ、諸塔を壊撤して舎利を分かち取る。(中略)。是の後、八万四千、之に因って起こる。育王の諸女、亦次いで浄心を発し、並に石を錆り、金を溶かして神状を図写す。」と記している(注14)。これが慧達伝の第四女の造仏を承けたものか、別の先行史料に拠っ364-

元のページ  ../index.html#374

このブックを見る