鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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たものかは判断できぬが、ここで注目されるのは、阿育王諸女の造像が阿育王塔と共に語られることである。造像が父でも娘であっても(注15)、造寺造仏が供養福徳の象徴であることは言うまでもない。阿育王像説話は阿育王塔伝説と全く無関係で成立したとは考えられず、中国に阿育王塔の存在が認識されるようになった時期を同じくして成立したと考えてよいだろう。阿育王の造寺造仏を、すなわち造寺造仏を阿育王に仮託して、功徳の象徴とすることが、説話作成者の意図だ、ったのではあるまいか。説話に語られる仏舎利・塔(寺)・仏像は功徳の重要な要素であり、これは上記の曇翼伝、仏図澄伝、慧達伝の説話にも共通して含まれている。この三要素を含む僧伝では、初期中国仏教史に於ける康僧会伝(注16)が最も著名であろう。三国時代の呉国、康僧会が孫権に仏舎利の霊験を説いて阿育王の仏塔建立の功徳を話したところ、権はもし仏舎利を得たなら塔を建ててやるといい、康僧会は祈請の末、遂に舎利を感得した。驚いた孫権は塔を建てて建初寺と号した。そして孫自告の時、仏法を敬信しない自告が出土した金像を周に置き尿をかけると、その応報として陰嚢が腫上って痛みの為に死を求めるまで、に至った。そこで仏法を奉じていた妓女に憐悔して香湯で仏像を洗い、殿上に安置して礼拝すると腫れがひき、康僧会に五戒を受けるや完治したという。この説話は劉宋の劉義慶が著した『宣験記』にも収録されている(注17)。『宣験記』は劉義慶と彼を囲む宮廷文人との共同編著として知られているが、本書が撰述された元嘉年間には伝亮が『光世音応験記Jを撰述するなど、数々の因果応報、霊験謹が語られた(注18)。前述の如くこの時期はインド各地で舎利供養を実見した法顕が帰国して問もない頃であり、荊州ばかりでなく建康にも外来僧が集中した。この時期、中国仏教徒の仏舎利への渇望と憧慢の念が高まるにつれ、阿育王塔が中国にも存在するという説話が創作され、それに付随して阿育王像説話も創作された蓋然性は極めて高いのではないだろうか。また、説話創作に際しては、早い時期に将来されたであろう、例えば京都国立博物館所蔵の五胡十六国時代の如来立像(注19)の如きガンダーラ風の、古式金銅仏〔図6〕が仮託材料として想定できょう。近年、藤善真澄氏は南斉王政の『冥祥記』の記述や劉宋から南斉時代に求法の旅から帰国した智猛や法献の存在に注目して、阿育王塔説話の始源を宋末斉初に求められた(注20)。既に指摘したように阿育王像説話も南斉まで遡ることは疑いない。しかし、元嘉年間の様相を鑑みるならば、両説話の成立時期は、元嘉年間をさほど降らない時期に求めても良いのではなかろうか。-365-

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