鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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4.南北朝時代における阿育王像の造像説話の成立は上記のような始源が求められるが、説話中以外で文献上に残された阿育王像の造像例は極めて少ない。管見によると、僅かに僧祐『出三蔵記集』巻十二法苑雑録原始集目録序に「長干寺阿育王金像記第一」(注21)と記されるのみで、僧祐が没した天監18年(519)頃には長干寺に阿育王像が存在していたことは分かるが、慮山や荊州長沙寺像は唐代の文献に拠る以外術がなく明確な答えを出せない。また唐代には阿育王像が時折「育王瑞像jと呼ばれることを考慮すると、同序に記された「斉武皇帝造釈迦瑞像記第十四」の「釈迦瑞像」を当該資料と考えることも可能だが、その前に「瑞像」の言葉の定義を考える必要があろう。ともあれ、説話の成立と同時に造像が盛んになったとは考えられず、冒頭で述べたように四川省出土の阿育王像の像容からは、造像が行われるようになったのは梁代末期のことと考えられる。そこで梁代の四川地方の仏教界の動向及び説話類を『高僧伝Jによって確認すると、阿育王像さらには阿育王塔に関わる事績説話もみられず、また西域僧の活躍も殆どみられない。すなわち四川独自で阿育王像が制作された可能性は極めて低く、諏訪義純氏が指摘するように梁代の四川には歴代の益州刺史と同行した高僧達によって当時の都であった建康の仏教が移植された(注22)。したがって、建康仏教界の動向をみる必要がある。まず、僧祐は『出三蔵記集』に劉宋末の大明年間(457〜64)以降、訳経が殆ど絶えたと記しており(注23)、『高僧伝』によってこれを確認すると、確かに大明年間以降は訳経僧が殆どみられなくなり、同時に外来僧の数も激減する。そのような状況で梁代に来朝して、武帝に抜擢されて家僧(注24)にまでなったのが扶南僧の僧伽婆羅である。梁代の訳経事業は婆羅を中心に行われ、天監11年(512)に『阿育王経』が訳出された(注25)。訳経初日、武帝自ら筆を取ったといわれるように、武帝の阿育王への傾倒は、大通元年(527)と大同3年(537)の同泰寺に於ける捨身(注26)、また大同2年(537)会稽阿育王塔の仏舎利を台中に迎えていることからも明らかである。とくに注目されるのは大同3年(537)8月に長干寺の阿育王塔が改修され、9月に同寺で無遮大会が行われて仏舎利が台中に迎えられた際、それを観るもの百数十万人にのぼったという(注27)。帝自らが仏奴の象徴的存在となり、阿育王の存在が民衆にも強く印象付けられたことは疑いない。阿育王の功徳が広く流布した瞬間であろう。そして同年間月、武帝の第八子武陵王薫紀が第九代益州刺史に任ぜ、られ、建康の高僧慧詔等と共に四川へと向ったのである(注28)。366

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