鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
377/592

注(2) 四川出土阿育王像については以下を参照。劉志逗・劉廷壁『成都万悌寺石刻Z木』中国古典古木出版社、1958年。成都市文物考古工作隊・成都市文物考古研究所「成都市西安路南朝石造造像発(3) 2003年3月、現地調査の結果、寺社は成都市中心部北北東の一環北一段と馬家花園路の交差点付(5) 牧田諦亮「高僧伝の成立(上)」『東方学報j44京都大学人文科学研究所、1973年、101〜125頁。(6) 『高僧伝』巻第14、大正蔵50、419a。(7) 『高僧伝』巻第8釈曇翼伝、大正蔵50、355c。(8) 「無憂王経一巻(閥)。右十三部。凡七十三巻。宋文帝時。天竺摩詞乗法師求那政陀羅。以元嘉中(9) 『高僧伝』巻第6釈慧遠伝、大正蔵50、357c。(10) 『高僧伝』巻第9竺仏国澄伝、大正蔵50、383b。(1功『弘明集』巻2明仏論、大正蔵52、12c。『法苑珠林』巻18、大正蔵53、418a。魯迅『古小説鈎沈(16) 『高僧伝』巻第l、大正蔵50、325a。おわりに以上のように、現地調査と文献史料の検討の結果、まず阿育王像説話は南斉時代に成立していたことは疑い無く、その始源は劉宋元嘉年間をさほど降らない時期に求めることができる。但し、阿育王像が実際に制作されるようになったのは梁代後半頃と考えられ、その背景には武帝が阿育王へ傾倒して行った度重なる捨身や無遮大会があり、当時の仏教徒のみならず民衆の聞にも阿育王の功徳すなわち阿育王の造寺造仏が広く流布したことがあげられる。像容の源流や様式の検討は今後の課題となるが、四川省出土阿育王像は、梁代仏教のあり方を如実に反映した作例といえよう。頁。肥田路美「「等身」考一唐代撰述史料にみえる皇帝像と仏像との関わりを中心に」『風土と文化』3日本歴史文化学会、2002年、3〜10頁。掘簡報」『仏教芸術』252、毎日新聞社、2000年、13〜34頁。衷曙光「四川省博物館蔵万仏寺石刻造像整理簡報」『文物』545、文物出版社、2001年、19〜38頁。近から東に広がる一帯であることを確認した。調査に際して四川大学芸術学院慮丁副教授、同大学院生羅玲氏、成都市文物考古研究所雷玉華副研究員の御協力を賜った。記して感謝の意を表しfこい。及孝武時。宣出諸経。j『出三蔵記集』巻二新集経律論録第一、大正蔵55、13a。及び「即於辛寺出無憂王」「高僧伝』巻第三求那践陀羅伝、大正蔵50、334b。(下)』「宣験記J新芸出版社、1970年、444頁。同『高僧伝』巻第13釈慧遠伝、大正蔵50、409b。同『法苑珠林』巻86、大正蔵53、920a。同『高僧伝』巻第13、大正蔵50、413a。同僧祐『釈迦譜』「育王弟出家造石室縁」には阿育王の弟が石像を造ったという話がある。( 1)小谷仲男「四川省成都市出土の阿育王像」『史跡と美術』713史跡美術同孜会、2001年、96〜103(4) 2002年1月に実見した際には、〔図l〕の頭部は取り外されていた。仕7)魯迅『古小説鈎沈(下)』「宣験記」新芸出版社、1970年、440〜442頁。-367-

元のページ  ../index.html#377

このブックを見る