インデクス2.固有名という指標という(注3)。ここには、過去の時代についての情報断片が多層的なコラージ、ュとして並置され、集合的な記憶と個人の私的な記憶とが網の目のように織りあわされている。そこには、「あの時代はこうだ、った」という統一的な認識や透明なメッセージは含まれていない。観者は思い思いの本やケースを取り出して閲覧するのであって、個々の断片の集積から過去についてどのような認識を抱くかは、各自の能動的な読みと想像力に任されている。こうしたアーカイヴならではの蒐集・保管・展示の仕掛けによって、論理的に整理されてしまうことのできない記憶、偶発的でとりとめのない記憶までもが掬いとられるのである。しかし、他方でこのアーカイヴ作品のもうひとつ重要な特徴をなすのは、いたるところにアートとしての加工が施され、作家による書き込みがなされていることである。亜麻布で装丁された本の多くは泥水に浸されて変色しており、あたかも洪水のなかから拾い上げられて乾かされた古文書のように見える。記憶が忘却の淵にあることを暗示するために、古さを演出しているのである。また、一冊まるごと封印されていたり、部分的にページが縫い合わされている本もあり、もはや私たちがアクセスできない記憶があることも寓意的に示している。そのため作品全体の印象は、壮大な古文書の収納庫か考古学の標本棚のようであり、これ自体「具体的かたちをとったひとつの‘歴史彫刻’」(注4)と評されるほどの造形性をもっている。また、本を聞くとページの随所に、作家が水彩で、描きこんだ骸骨や胎児の形状をした人形が見られ、アーカイヴ全体に陰欝で不吉な繋りを与えているのだが、本にスクラップされた手紙や文書のなかには、そのドローイングによって塗りつぶされ、ほとんど読めなくなっているものさえみられるのである〔図4〕。このように、ジグルドソンの〈静寂の前に〉は、歴史ドキュメントのアーカイヴに擬したものでありながら、史料庫と芸術作品、現実と非現実との境界がきわめて暖昧である。そうしたアートたろうとするアーカイヴのなかでは、たとえ私信や日言己のように個人によって生きられた生の証であっても、語りえぬものを語ろうとする造形のレトリックのなかで、現実の指示対象の唯一性が消去され、経験が空洞化されていくことは否めない。ここに、アートが現実を指示するうえでの、ひとつのアポリアがある。では、現実指示の要素を、それ自体にはなんの改変も加えずに作品として構成し提示すれば、唯一性は保持されるだろうか。この点の考察をさらに一歩先に進める手が372 ひとがた
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