インデクス3.対抗モニユメント8〕。石の総数は2146個にのぼり、広場の中央を貫く幅数メートルの道のように直線状に敷かれているが、刻印面が地中にあるため、場所の外観はなんの変哲もないふつうの広場である。この作品も、何かを新たに造形してはいない。広場の敷石の裏側に過去の情報を刻みつけることで、「不可視の記念碑」としてそれを記憶するのである。以上ふたつの作品において、個別の現実を指し示すものとして導入される固有名の指示機能についてもう少し考えてみたい。ボルタンスキーの〈ザ・ミッシング・ハウス〉の場合、それは人名であり、名前は個人を指し示す最初の指標すなわち標示記号である。その限りでは、指示する人物について、それがどういう人であったかという認識をいささかも与えるものではなく、ただ「この人jと指し示す機能しかもっていない。そしてこの記号は、同姓同名の人が必ずいるように、複数の人に対して使用されうるものである以上、指示対象とはある程度、偶然的な関係をもつものでもある。だが、まさにその指示機能のゆえに名前は、住民台帳や家系図、組織の名簿などの客観的な座標系に置いてみたとき、特定の人物をくりかえし同定することができる。この社会的座標系において、絶対的な固有性に結びつくと見なすことができるのである(注8)。〈ザ・ミッシング・ハウス〉では、居住者をつきとめた際の資料がこの座標系にあたるわけである。このようにして同定された人物の名前が、では、美術作品の視覚的要素として(つまり図像として)使用されたときに同じ指示機能をもち続けられるだろうか。たしかに、防火壁に点在するネームプレートは、資料という座標系を提示されていなくとも、最後の居住者たちの住んだ場所やその部屋の位置関係を示すことで、彼らが本当に居た場所という「場の真正さJによって自らの名前の固有性を支えられている。しかし、こうした空間のレトリックにもかかわらず、視覚的な「文字像」としての性格をおびた人名は、当の本人についての記憶をもたない観者によって受容されるとき名指される当の人間とは偶然的な関係しかもちえない固有名であるために一一一対象への指示性を弱めて、その唯一絶対性とは切り離され空虚な記号に容易に類落する可能性をもっているのである。これは、アートが現実を指示するうえでの、もうひとつのアポリアにほかならない。したがって、ゲルツの{2146個の石〉の場合は、刻印面を伏せて「像」を隠したことによってこうしたアポリアが回避されていると解釈することカfできる。ヨッヘン・ゲルツは、とくに80年代後半から、公共の場におけるホロコースト記念374 元来、
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