鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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義』(Buddhaand Gospel of Buddhism)では、オボニンドロナトとノンドラルの挿絵が付された。1918年には、ベンガル語の近代散文を確立したと言われるボンキムチョンドロの著書に、シュレンドロナト・カールとノンドラルが挿絵を描いた(注20)。『ヒンズー教と仏教の説話』が、民族運動と歩調を合わせた、インド固有の文化を見直す必要性への問いかけであったように、上記の著書もまた、独立運動の精神が反映されたものであったと考えられる。先述したように、挿絵ふうの表現は、オボニンドロナトをはじめとするベンガル派の作品の大きな特徴であり、この特徴が、政治、思想、宗教、文学における近代化の動きと連動した結果であったことは明らかである。この挿絵ふうの表現が、一方で実際に著書の挿絵としての役割を担い、芸術的価値を下げてしまい兼ねない出版物という形での発展を見せていったのはなぜだろうか。これについては、複製画の頒布という側面も含めて検討しなければならない。ここで注目されるのは、ベンガル派の作品の発表形式である。ベンガル派の絵画運動の拠点となっていたのは、1907年に創立されたインド東洋美術協会であった。o.c.ガングリによれば、ベンガル派の画家たちは、インド人の文化面での統ーを理想としたこの協会から経済的な援助を受け、展覧会の企画、新聞や雑誌への紹介、出版物を通じてのインド国内から海外への報道など、様々な側面でこの協会からの協力を得ていた(注21)。更にガングリによれば、この展覧会に出品された作品は、はじめ、日本の木版(彩色)によって印刷されていた。一例として、1908年の第l回展に出品されたノンドラルの「サティ」などが複製画として販売された(注22)。1903年に『国華』に掲載されたノンドラルの「カイカイ姫」(注23)もまた、同様の方法による複製画であり、この記事には、インド東洋美術協会の会員であったジョン・ウードロッフによる作品批評も付されている。このように、展覧会へ出品された作品は、その後印刷物としてインド国内や海外へと公表されていった。またガングリは、インド東洋美術協会がウォッシユ・テクニックによる特有のハーフトーンをより正確に表現できる印刷技術を求め、ロンドンのエメリー・ウォーカーが設立した印刷会社のコロタイプ印刷に行きついたと述べており(注24)、ウオツシュ・テクニックがもたらす微妙な色彩のニュアンスを美しく再現することにこだわっていた様子が窺われる。こうしたカラーの複製画によって、ベンガル派の作品は、カルカッタでの展覧会を直接見ることのできない鑑賞者たちにも認知されていった。雑誌に掲載されたカラー図版の意義も大きい。1907年1月より、ラマナンダ・チャテルジが英文の『モダン・レヴュー』誌(ModernReview)を発刊、オボニンドロナトの図版がこれに掲載されるようになった。また、ベンガル語の『プラパシ』誌(Prabasi)にも図版が掲載された。384

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