1920年以降は、インド東洋美術協会が発行する『ルパンJ誌(Rupam)に、その役割は26)との評価を与えているが、彼は実際展覧会を見ていたわけではなく、『モダン・レヴ、ューJ誌の図版でベンガル派の新傾向の作品を知っていたのみであった。彼が「イヲ|き継がれていく。このように複製画の制作のための印刷技術と出版事情は、ベンガル派の絵画運動と切り離しては考えられないものであった。事実、マドラスの神智学協会(注25)の幹事を務めていたジェイムス・カズンスは、ベンガル派の運動について「アカデミックな娯楽ではなく、芸術を通じてインド精神の表現に努めている」(注ンド美術に関する著書や複製画が入手可能となった。これは新しいインドにとって最も重要なことであるJ(注27)とインド東洋美術協会の活動を評価しているように、マドラス在住の彼がベンガル派の作品を知り得たのは、複製画が普及していたおかげであった。インド東洋美術協会が複製画の制作に力を入れた目的は、インドの国民芸術を追求するベンガル派の作品をインド国内に浸透させ、その運動を認知させることにあった。それは、この協会にとって、ベンガル派の絵画はナショナリズムの具現としての役割を担うものであり、この協会が、民族意識を呼び起こす刺激となることを彼らの絵画に期待したからである。この協会の活動に大きく関わっていたニヴ、エディタは、1907年に制作されたオボニンドロナトの作品「インドの母Jに対する批評のなかで、「徹頭徹尾、この作品はインドの方法による、インド人の心に向けてのアピールである。新しいスタイルによる初めての傑作である。できることなら、これを一万部印刷しインド国中に頒布したい。J(注28)と述べている。つまりニヴ、エディタにとっては、ナショナリズムのシンボルとなるべきベンガル派の作品は、民衆を啓蒙するための有効な手段であり、大衆を動かすには、その作品をインドの国民全体に普及させる必要があると考えていたことがわかる。インド東洋美術協会は、インド北部のシムラー(1909年)や、同じくインド北部のアラーハーバード(19101911年)など、カルカッタ以外の地域でも展覧会を開催しているが、クーマラスワミがこうした展覧会活動について「あまりに局部的」(注29)と指摘するように、カルカッタがデリー、ムンパイ、チェンナイなどの主要都市から離れているという地理的な問題ゆえに、協会の活動範囲には限界があった。ナショナリズムの思想、をインド全域に広め、国民をこの思想、に統合させるには、出版物や新聞、雑誌などの報道に頼らざるを得ない状況であった。ベンガル派の作品に対して、最終的に印刷物の形での流布が求められた背景にはこうした事情があったのであり、1900年代末から1910年代にかけて挿絵本が相次いで、出版された現象は、ベンガル派の絵画表現とナショナリズム思想、との関係が強まる傾向にあっ-385-
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