本家から支藩である鹿島鍋島家へは、2代光茂養女千代姫(2代鍋島直候に嫁)、8代治茂女悌姫(天明5年(1785)6代鍋島直宣に嫁)、10代直正養女藷姫(文久元年(1861) 11代鍋島直彬に嫁)の3人が嫁いでいる。筋杏葉紋付のものはないため本家からの調度と断定できる資料はなく、分家の姫君或いは所用者不明の調度、10件を調査した。まずは「木槌」印の箱書を持つ黒塗に花杏葉紋散唐草蒔絵の仕様の資料5件があるが、この「木槌」印が誰に相当するのか分からないため、所用者も不明である(注9)。また、「篤誠院様御道具jとの箱書がある盟・湯桶は、文化13年(1816)に小城鍋島家から嫁いだ篤姫所用のものと考えられる。総体的な分析婚礼調度は発注主が明らかで、製作年代の下限が推定できるものとはいえ、それは箱書や文書といった記録類から所用者が特定できる場合のみである。今回の調査では、箱書がない、さらには箱自体がない資料も多く、所用者の特定が不可能な作例が多くあった。確実に所用者が特定できるのは、永青文庫所蔵の宏姫の調度と成巽閤所蔵の朗子の調度の二種類である。また、宇和島伊達文化保存会所蔵の資料が本家からの姫君の調度であることは確実であるが、その他の武雄・諌早・佐賀県立博物館所蔵の資料は、筋杏葉紋を用いた調度を除き、本家が整えたと断定できるものは少ないといえる。そのためにも、今後は本家以外、特に支藩である小城・蓮池・鹿島鍋島家が整えた婚礼調度についても調査し、その作例を把握する必要がある。続いて所用者や時代を判別する手がかりとして特に家紋に着目し、調査により派生した諸問題について考察していく。3-1、各資料に見る杏葉紋の形態同じ杏葉紋でも、さまざまな形態の違いがあることが分かつた(注3)が、それらの分類について検討する。分類により家紋の変遷過程や用い分けの実態を追うことができたなら、箱書や作者銘や作風などに頼れない蒔絵作品の編年を行う一助になるのではないかと考えるからである。まずは実作品に見る使い分けの可能性を探る。〔表3〕の「家紋」の項目、特に宇和島伊達家伝来の箇所からも分かるように、本家は筋杏葉紋のみでなく花杏葉紋も用いていたことが分かる。しかし所用者が明確な基準作とも言える細川家・前田家伝来の蒔絵調度はいずれも筋杏葉紋を用いており、正式には筋杏葉を用いていた可能性もあ-395-
元のページ ../index.html#405