鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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注(6)大名家や宮家では当主や室、その子女を直接通称や詳などで呼ばずに「お印」を決めておき、手(7)所蔵先の武雄市では、杏葉紋(花杏葉紋を含め)のついた調度をすべて寵姫所用としている。(9) この家紋の形や唐草の表現などは、諌早家伝来の鼻紙憂(慶巌寺所蔵)・鏡建(性空寺所蔵)に( 1) なお支藩である蓮池・小城・鹿島鍋島家では家中内の婚姻の比率がさらに高く、再婚や養女に(2) 正室として迎えた家に姫君を嫁がせる例は、外様大名では鳥取藩池田家、公家では中院家・久世(3) 鍋島家の家紋である杏葉紋は、鍋島家の家紋が本来四ッ目結紋であったのを、元亀元年(1570)(4)所用者を示す資料として黒塗花杏葉紋散唐草蒔絵十種香箱の外箱に「柳印」の箱書があるが、こ(5)永青文庫所蔵分が15件、熊本県立美術館寄託分が9件で、永青文庫所蔵のうち14件を調査する機(8)諌早市郷土館織田武人氏のご教示によると、女乗物の長棒は本体とは別物で、支藩である蓮池鍋調度を揃えて婚礼に臨んだのであるが、それは鍋島家のみならず、江戸時代中・後期における他の大名家の場合にもあてはまることなのではないだろうか。今後の課題としては、鍋島家の整えた調度の基準を把握するためにも、本家のみならず、分家を始め上級家臣団の整えた調度の作例も調査していく必要がある。また、家紋の用い分けを検討していくにあたっては、蒔絵作品だけでなく、大名道具全般からその作例を集めていく作業も必要となる。また、今回考察に及ばなかった嫁ぎ先による調度の格の違いや国元での蒔絵製作の実態、藩お抱え蒔絵師の存在などについて、鍋島文庫を始めとする文書類からの考察も進めていきたい。した場合を含め、三家あわせて実に32組中26組が家中内での婚姻となっている。佐賀藩の親族家名一覧については〔表2〕を参照。家。このように一度縁を結んだ家向士の婚姻は大名家には多く見られることであり、それは一般に家風や経済状態を双方とも既に知っており身近で、あるためとされる。今山の戦いで大友氏に勝利した鍋島家の藩祖直茂が大友氏の家紋である杏葉紋を奪ったことに始まるとされる[「葉隠問書第六、八一三」(『校注葉隠J栗原荒野編青潮社1975年)、「直茂公譜一」(『佐賀県近世史料J第一編第一巻佐賀県立図書館)参照]。杏葉紋はその形状が類似しているために若荷紋〔図l〕と混同されてきた[「葉隠聞書第六、八一九」(『校注葉隠』栗原荒野編青潮社1975年)、[寛政重修諸家譜』第十三の巻第八百二十三参照]。箱書に表記された家紋の名称を示した〔表3〕の紋表記の項目からも分かるように器物資料の箱書にも著荷と記された例は多く、現在でも鍋島家の家紋が「抱若荷」と認識されることは多々あるが、管見の限りでは実際に鍋島家の資料に家紋として若荷紋を用いた例はない。また杏葉紋の中にも、葉脈筋のある筋杏葉紋〔図2〕と、専の上に薬のある花杏葉紋〔図3〕との2種類があり、「本家は筋杏葉紋、分家は花杏葉紋を用いる」という認識が強い。替紋についてはほとんど考察されていないのが現状である。れが3人のうち誰のお印であるかは不明である。会を得た。回り品や収納箱などに実際に「印Jの絵を描くか箱書として記述して所用者を明示した。島家から嫁いだ姫君の婚礼調度との伝承があるがその典拠は不明、とのことである。400-

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