鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
419/592

⑮ 古代肖像画における工ンカウスティック技法と表現一一一フォッグ美術館の作例とプリニウス『博物誌Jの検討一一研究者:大妻女子大学非常勤講師I序本稿が対象とするのは、紀元後l〜4世紀にエジプトのファイユーム地方を中心に制作された、いわゆるミイラ肖像画の絵画技法と表現の問題である。ミイラ肖像画とは、ミイラに添えた肖像画で、亜麻布または木板に描いたものをミイラの頭部に填めたものである。エンカウスティック技法(蝋画技法)またはテンペラ技法を用い、きわめて写実的な肖像画である。その写実性には現代人の美的感覚に訴えるイリュージョニズムがそなわっている。本稿ではこのような表現をささえるエンカウスティック技法をとくにとりあげたい。エンカウスティック技法は、顔料を熱した蜜蝋で溶いて用いる方法で、前5世紀にギリシアで発明され、前4世紀にはアペレスをはじめとする多くのギリシア人画家が用い、古代ではフレスコ技法、テンペラ技法とならぶ重要な技法だ、ったが、古代ギリシアまたは古代ローマの現存例はほとんど無い。エジプトのミイラ肖像画は現存の古代絵画のうち、個人を表現した作品群として(現在600点余が知られる)貴重なものである。エジプトのミイラ肖像画の先行研究では、全体のカタログ作り(Parlasca1966)や、作家(多くの場合職人)の同定(Thompson1976)、またはローマ時代の肖像芸術との関連の検討が行われている(像主の髪形や衣服、宝飾品が同時代のローマで流行のスタイルを反映し、編年の上でも重要〔Borg1996 ; Walker 1997〕)。だが、背景となる社会とのつながりの解明は進んで、いない。その理由のひとつは、ミイラ肖像画が盗掘によって美術市場に持ち込まれて初めて存在が明らかになり、正規の発掘が行われる以前に多くの肖像画はミイラ本体からはがされ、作例の出土状況の記録が残らないためである(Riggs2002)。筆者はこれまでの古代ギリシア絵画研究(拙論1994,1997, 1998)をもとにミイラ肖像画を検討した結果、ヘレニズム世界の伝統が継承されている点に行き当った。エンカウスティック技法で描かれたミイラ肖像画の表現には、ファイユーム地方のギリシア入社会の自己イメージの表出が推測されるのである(住民の上層には、プトレマイオス一世またはアレクサンドロス大王とともにエジプトへ来てファイユーム地方に入植した退役軍人の子孫が含まれることがパピルス文書の記録に残る。Walker1997)。中村るい-409-

元のページ  ../index.html#419

このブックを見る