本稿で「技法」の語は、単に材料や技術のハウツーの意味でなく、技法面からみた表現や作品のあり方も含めてつかっている(参照:森田1970a,1970b)。エンカウスティック技法研究の問題点は、文献記録が博物学者プリニウスの記述にほぼ限られ(一部ウィトルウイウスが言及する)、プリニウスが十分な技術上の知識や経験なしに記録したため、記述に矛盾や書き落としが多い点がある。さらに、現存作品としては、気候条件からエジプトのファイユーム地方周辺の出土品に限られ、ギリシアや他の地域の作品との比較が不可能な点である。本稿はこの点を踏まえて、「フォツグ美術館の婦人肖像画」をケーススタディとして作品の記述を行い、プリニウスの記述を検討し、近年の科学分析の成果を加えて、エジプト葬礼絵画の技法がヘレニズム世界の絵画伝統とどのように関連するかを考察する。II 「フオツグ美術館のミイラ肖像画」〔図la, b 耳飾りをつけた婦人肖像画〕ハーバード大学付属フオツグ美術館収蔵の「耳飾りをつけた婦人肖像画」(収蔵番号1923. 60)は、紀元後2世紀のハドリアヌス帝期のもので、ファイユーム地方から南に下ったアンティノポリス出土と考えられる(Tanner1932 ; Hanfmannl954, 1975 ; Doxiadis 1995)。若い女性像で、向かつて右側にわずかに顔を向けている。大きな瞳と、まっすぐ通った鼻筋、濃紺の衣装と、その下につけた白い衣装(チュニック)の色彩のコントラストなどがきわめて印象的である。肌の部分は色調を微妙に変化させることで、彫像的なヴォリュームをうまく表現している。彫像性は、眉が額の一番高いところにおかれ、目を眼簡に確実に配置し、首を衣装のなかにしっかりとおさめている点にも明らかだ。画面左からの光によって、女性の鼻の左側、頬の左側に一貫して光をあて、右半分は全体的に暗い。左右の瞳には反射光が入札下まぶたの縁にも目の潤いを示す反射光が加えられている。小さな顔のっくり、かたく閉じられた口元、右のほうを見つめる目は、一種の緊張感を漂わせている。耳飾は真珠と、中央に赤い石をはめた菱形の飾りから成る。白い衣装の隅に濃い赤の装飾がついている。筆致は肌部分が水平の細いタッチで、衣装部分の幅広のタッチと対照的である。肌の部分は金属製の道具(カウテリウム)を使った表現と見受けられる。盛り上がった蝋の作る凹凸が、思いがけない触感と存在感を生み出している。蝋のいわゆる熱可塑性を巧みに利用した点である(蜜蝋の主な特性:ゲッテンス&スタウト1999;デルナー1980;ヴェールテ1993;拙論2003)。410
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