ハ同Aせd⑩竹内栖鳳とポール・ク口ーデルの交流について一一王含城美術賓物館所蔵関連資料の検討を中心に一一研究者:お茶の水女子大学人間文化研究科教務補佐員福永知代はじめに1921年から1927年にかけて、フランス大使として滞日したポール・クローデルは、詩人、劇作家としても著名で、『内堀十二景』や『四風帖』、『百扇帖』など日本文化にまつわる数多くの優れた作品を遺している。クローデルのたっての願いでそれらの著作に協力した冨田渓仙をはじめ、黒田清輝・竹内栖鳳・山元春挙・横山大観・鏑木清方ら数多くの日本人画家と交流し、その作品を積極的にフランスの美術館に収蔵させる(注1)など、日本近代美術のヨーロッパへの紹介者として果たした役割も大きい。そういった意味において日本近代美術史学の視点からも今後、十分な検討が必要とされる人物であると思われる。そこで報告者は、竹内栖鳳とクローデルの交友について調査研究を行った。大正期の栖鳳がクローデルと親交を保っていたということはこれまでにも「墨絵の叙景詩ークローデル大使とのータ話−J (注2)や『栖鳳閑話』(注3)など作家自身や息子・逸の断片的かっ挿話的記述によって知られてはいたが、その契機や内容に関する具体的かつ実証的な検討はなされていない。1900年に渡欧した時の西洋美術体験がその画風形成に決定的に作用した栖鳳という画家において、「西洋」はその後も継続的に影響力を保ち続けたのだろうか。あるいは、「西洋」の役割はいかに変容していたと考えるべきか。そういった問いに対しでもこのテーマはひとつの有効な手がかりを提供してくれるに違いない。なお、今回の調査の過程で栖鳳とクローデルの交流の実態を示す大変貴重な一次資料が王舎城美術賓物館に所蔵されていることが判明した。よって本稿では特にこの「王舎城美術賓物館所蔵クローデル・栖鳳関連資料」(以後、王舎城資料と略称する。詳細は資料編のリストを参照されたい)に焦点をあてて論ずることとする。日仏交換美術展覧会出品作〈雨の蘇州〉クローデルと栖鳳がはじめて実際に顔を合わせるのは、現在判明している限り、1924年12月8日に執り行われた栖鳳に対するシュヴァリエ・ド・ラ・レジオン・ドヌール授与式の時であった(注4)が、それまで二人の聞に全く関係がなかったかといえばそうではない。1922年に栖鳳が同年の日仏交換美術展覧会出品作〈雨の蘇州〉(注5)
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