オプテイカル自らの新しい種類の成形の探究に役立てたように思われる。ここで、1956年のポロックの死をもって未完のままに残された〈カット・アウト〉のケースは極めて興味深い。1949年に撮影されたポロックのスタジオに立つリー・クラズナーの写真〔図11〕には、彼女の背後に制作途中の〈カット・アウト〉が写っている。そこでは中央が切り抜かれた〈カット・アウト〉の厚紙部分が、上下逆さまにされた1948-49年頃のポロックの無題の作品(紛失、カタログ・レゾネ番号785)(注11)〔図12〕の上に重ねて置かれている。また、冒頭で示した1956年の写真〔図3、5〕では、〈カット・アウト〉の厚紙部分は〈黒と白の絵画II)〔図4〕の上に重ねて置かれている。これらの写真に見られる〈カット・アウト〉についての二通りの実験が示しているように、ポロックは〈カット・アウト〉の厚紙部分の中央を人の形に切り抜いた後、そこに何らかの別の絵を裏から貼り付けることを考えていたと思われる。ここで思い出されるのが、絵画の表面への異質な物質の貼付というキュピスムのコラージ、ユの手法である。〈蜘昧の巣を逃れて〉を除くポロックのカット・アウト作品は、視点を変えればそれはまたコラージュ作品で、もあり、実際ポロックのカタログ・レゾネでは、それらは「コラージュ」として分類されている。ポロックは自らのカット・アウト・シリーズ、とりわけ〈カット・アウト〉において、マテイスの切り紙絵の美学のみならずピカソ=キュピスムのコラージュの美学をも取り込もうとしていたように思われる。形成期以来ピカソの芸術と深く関わってきたポロックが、ピカソの仕事の中のコラージ、ュという局面に目を向けるのは不自然なことではない。カット・アウト・シリーズ期のポロックの、コラージュというミディアムに対する明らかな関心を示す事実として、ポロックは1947年には一点もコラージ、ユを制作していない一方で、、1948年から51年にかけて、カット・アウト・シリーズの五点の作品とは別に、実に十点近くのコラージ、ユを制作している。既に見たように〈カット・アウト〉においてポロックは、厚紙の中央を人の形に切り抜いた後、二種類の絵をその下に試みに置いていた。そうすることによってポロックは、それぞれにおいて間接的に新たな一つの成形作用を生じさせようとしていたように見える。〈カット・アウト〉におけるポロックのそのような複雑な試みは、後で詳しく説明するように「視覚的ステンシリング」とでも呼ぴ表せるようなものであるが、ここで再びマティスの『ジャズ』が問題となってくる。すなわち、『ジャズJはステンシリングの技法によって印刷されているのである。1948年に入ってポロックがステンシリングの技法に関心を示していたことは、カット・アウト・シリーズと密接な関係を持つ彼の別の幾つかの作品からも十分に知ることができる。たとえば1948年の〈三人組〉〔図13〕では、白のポーリングはその輪郭の状態から判断するに、おそらく型紙33
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