〔図l、2〕をフランス政府の求めに応じて寄贈した(注6)過程においてクローデルは重要な役割を果たしていたのだ。日仏交換美術展覧会(以下、日仏交換展と略記する)とは、クローデルが着任して半年にも満たない1922年4月20日から6月30日まで、パリのグラン・パレを会場に開催された大規模な日本美術展の通称である(注7)。この年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールの招待展として開催されたこの展覧会は、林洋子氏の指摘するとおり「明治以降の『日本画』を本格的にフランスに通覧した初めてのもの」(注8)であった。京都画壇の取り纏め役でもあった栖鳳は極めてタイトなスケジュールに他の作家が新作出品を断念する中、あくまで新作に拘った。〈雨の蘇州〉〔図2〕がそれである。栖鳳は「破墨山水を曾遊の地である蘇州の風景を借りて描こう」と考え、当初「破墨の味」を生かせる紙本で取り掛かったものの乾きが悪く時間も切迫してきたため「中途から絹本にやり替へた」という(注9)。報告者は現在の所蔵先であるギメ美術館のご協力のもと、本作品を実地に調査する機会を得た。画面中央を大きく占める木立の左右には、水路の両岸に立ち並ぶ白壁の民家が描かれている。画面右の家々に付された出入り口の階段はリズミカルな横線の繰返しによって効果的なアクセントになっている。橋の上には笠を被った人、手前から二つ目の家の中にも二人の人影がある等、点景人物も数人描きこまれている。水面の舟上にも腰を深く折り曲げた格好の人物がみられる。とはいえ、総体的にはそれが水墨画で、あることに戸惑うほど抽象的な作品である。筆の赴くままにまず墨の「しみ」の塊を幾分オートマティックな筆致で描き、その結果出来た形状の面白さを生かすように後から説明的なフイギュールを描き入れたのではなかろうか。京都・高瀬川周辺を舞台に描かれた同傾向の〈雨>(1911年、京都市美術館所蔵)では、まだそういった偶然性の要素は見られない。〈雨の蘇州〉〔図2〕の現地での評判は悪くなかったようだ。雑誌の展覧会評数編に目を通したが「西洋の風景画を熟知し日本画のテクニックを用いてそれを実践している」などおおむね好意的な評価が寄せられている。それを裏付けるかのように会期終了直後、この絵を寄贈して欲しいとの申し込みがフランス政府から入り、作家も快諾した。ところが、外務省と在仏日本大使館聞の見解の相違が原因で(注10)、〈雨の蘇州〉は一旦画家の手元に戻されてしまった。その後事態が無事収拾され、改めてリユクサンブール美術館に〈雨の蘇州〉が収まるに至った背景には、寄贈を願うクローデル大使の強い意向があったということが当時の新聞記事から窺える。たとえば、同年10月21日付『読売新聞』には「クローデル大使が非常にこの書を欲しがり」、同日日仏420
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