鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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交換展の幹事長を務めた外務省情報部の松岡新一郎と和田英作とクローデルの3人で協議し解決に至った、とある(注11)。また、11月19日付『東京日日新聞』からは〈雨の蘇州〉を見たクローデルの感想を知ることができる。要約すると「この絵は直線的になり過ぎず、ターナーの名作〈霧と雨〉のように近代的筆致で大気を描くのに成功している(注12)。私は若い時分中国で領事をしていたので蘇州、同よく知っているが、雨の蘇州は全くこの絵のとおりで当時のことを思い出す。」(注目)〔図3〕という内容である。栖鳳は1920年と21年の2度にわたって中国に旅行に出かけている。とりわけ水の都・蘇ナト|はベニス同様栖鳳の心を捉えたとみえ、彼はこの街をテーマに他にも膨大な数の作品を遺している。その蘇州がクローデルにとっても思い出深き土地であったということはまさに奇縁としかいいようがない。さらに言えば、もし〈雨の蘇ナ|、|〉がそのまま直接(一旦日本に戻ることなく)フランス政府の手に渡っていたならば、この作品をクローデルが来日中に目にする機会はなかっただろうし、その後栖鳳と親密な関係を築くということもなかっただろう。〈雨の蘇州〉は、「蘇ナ|、IJという共通の記憶の回路を通じてクローデルと栖鳳を結びつけたのである。栖鳳の仏国勲章受勲先述したとおり、栖鳳は1924年12月、フランスから勲章を授与された(注14)。1923年5月14日、日仏交換展の功労者として黒田清輝と栖鳳に勲章を贈るようクローデルが本国に申請しているとの記事が『読売新聞』紙上に掲載(注15)されてから、既にl年半余りが経過していた。これは、アマン・ジヤンのサロン脱退に伴う日仏交換・フランス美術展計画の頓挫と関東大震災の発生によるものと推察される。こうしてようやく二人は顔を合わせることになる〔図7〕のだが、王舎城資料の栖鳳筆松岡新一郎宛書簡全五通のうち三通がこの件に関するもので授与式前後の様子をよく伝えている[A]〜[cl。11月24日付の[A]は文面より松岡から勲章贈与の旨通達を受け取ったその返事とみられ、栖鳳はまず松岡の配慮の賜物と礼を述べ、勲章は大使の都合に合わせ上京して受け取りたいと用件を続けている。[B](12月4日付)の内容は[A]に対する松岡の返事を受け取りそれに対して、既に「来る八日午前十時外務省へ出頭可致」との電報を別途送ったが加えて当日のI悌語会話御取成し」つまり通訳を松岡に依頼したいこと、七日に上京し帝国ホテルに宿泊することなどの連絡である。[C] (12月13日付)は帰京後に認められた礼状である。「頂戴せし勲章家庭のもの一同に示し男前を胸間に輝らせ欣躍仕候」との文言に栖鳳の素直な喜びの姿が窺われる。また、この書簡で保存用および新聞社への貸出用に栖鳳自ら写真を所望してい-421-

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