るのも人となりが垣間見えて興味深い。竹杖会主催仏国勲章拝受祝賀会翌年、クローデルの入洛にあわせ、また一時帰国の送別会を兼ねて竹杖会主催仏国勲章拝受祝賀会が行われたのは1月10日のことであった。前年12月30日付の[D]〔図4、5〕は、入洛のスケジュールを松岡に問い合わせたものである(注16)。これによると15日に日本工業倶楽部で日仏協会主催送別会(注17)が予定されていることなどから栖鳳は大使が多忙のため入洛できなくなるのではと懸念していたらしい。「少々心つもりも」あるので(この祝賀会の計画だろう)3日、このことをクローデルに伺ってみてほしいとある。クローデルの『日記』には、祝賀会の日のことが「私がレジオン・ドヌールを授与されるよう取り計らった画家、高橋栖鳳邸。彼の15人の弟子が厳かなる宴を催してくれた。栖鳳は私に驚異的な中国風の絵をくれた。その夜、稲畑は薩摩焼の古い査をくれた。」(注目)と書き留められている。ここから我々は3つの情報をえることができるだろう。すなわち、第一に祝賀会に出席した弟子は15人であったこと、第二に栖鳳がクローデルに「驚異的な中国風の絵(unemerveilleus巴peinturede chine) Jを贈ったこと、第三にその夜クローデルは「稲畑」なる人物とも会い、その人物に薩摩焼の古い査を贈られたことである。まず、一点目に関して、2001年にフランスで開催された「クローテルと日本j展(注19)に、この時15人の弟子がクローデルに贈呈したとされる絵画数点が出品されたという。残念ながらこの展覧会の小図録(注20)にはこれらの図版や目録は掲載されておらず、その詳細は不明である。一方、王舎城資料の中にはこの祝賀会の時撮影されたと思しき記念写真がある〔図6〕。場所は間取りからみて別荘の霞中庵ではなく、御池の栖鳳邸であろう。しかしながらこの写真には弟子筋は子息の四朗を除いて誰一人写っていない。別にいくつかメンバーを変えて同様の記念写真が撮影されたのではないかと想像される。次に二点目について現時点では明確でないものの、王舎城資料中に気になる写真を見つけた〔図8〕。これは、栖鳳旧蔵のアルバムの1ページで、クローデル筆の短詩[I] [II]に挟まれて〈龍図(仮題)}[IV]の写真が貼つである。この龍の絵が、クローデルに贈られた「中国風の絵」なのではなかろうか。落款は判別し難いものの、栖鳳の〈雲龍}(1887年頃)や〈龍}(1900年、京都市美術館蔵)などと比べてみて栖鳳の手になる可能性が高いと思う。422
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