鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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月3日付)はクローデルの再来日に言及していると思しき「御機嫌よく御帰朝被遂候趣奉賀候Jというくだりから、この年のものと考えてよい。近日中クローデルと入洛第三の点に関して、「稲畑」とは記念写真〔図6〕の中に姿がみられる稲畑勝太郎のことである(注21)。「その夜(Lesoir)」という言葉が祝賀会との場の区別を示唆している可能性もあるとは思うが、この写真の存在から親仏家であった稲畑も祝賀会に招かれていてその席上、薩摩焼の査をクローデルに贈呈したと考えるのが今のところ妥当なのではなかろうか。翌日にも、クローデルは竜安寺の石庭を訪ねた後、古美術商の喜多虎之助とともに栖鳳と昼食を共にしている(注22)。王舎城資料[ill]〔図9右〕はこの時に記されたクローデルの短詩である。また、栖鳳に宛てた書簡の形をとるエッセイ「自然と道徳一竹内栖鳳画伯に(注23)」はこの時の京都滞在の印象を書いたものである。ここでは詳しく言及する紙面の余裕がないが、この避遁が詩人の心に深く刻まれるものであったことは疑い得ない。「墨絵の叙景詩」の一夜を予定していることを知らせた松岡の手紙への返事らしい。[E]を読む限り、どうやら栖鳳はクローデルが再来日した時神戸で船を降り後は陸路にて東京入りすると勘違いし京都駅まで出迎えに行ったようだ(注24)。クローデルは見当たらず代わりに松岡の姿があった(神戸まで出迎えに行った帰りか?)ので驚いたという。さて、多少遅くなりはしたが予告どおり7月4日、クローデルはオフを友人たちと過ごすため京都を訪れた。『日記』によると、5日クローデルは山元春挙邸を来訪して色紙に詩画合作を楽しみ、翌日には、嵐山の渓仙邸で過ごしたという。滞在の最終日、7日の項には比叡山を散策後、三千院で栖鳳の〈幽林故道}(1906年)をみたとの記載がある。クローデルはこの襖絵をみて「コロ一風の震がかった効果を中国の水墨画の手法で施した杉林の中の隙間」に着目している(注25)。しかしこの4日間、栖鳳と面会したという記述はなく、この時二人が会ったかどうかは定かで、ない。この後、記録によって知ることのできる二人の接触はこの年の暮れ、12月7日までない。『日記』には「12.5 8 大阪・京都への旅。お別れ。嵐山の冨田渓仙宅。喜多(虎之助)と高橋栖鳳とともに晩餐。詩と絵。J(注26)とある。この時既にクローデルは日本大使の任を解かれ近々離日することが決まっており、これは京阪の友人たちにAdieuを言うための旅であった。年末、大正天皇が崩御したことに伴い、翌年の2月に1926年2月、クローデルは約l年の休暇を終えて再来日した。王舎城資料[E]( 5 -423-

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