鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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28)。パラ色の、という形容調の意味は図りかねるが多分〈清閑>(1935年、京都市美まで離日がずれ込んだものの、やはりこの時が栖鳳とクローデルの今生のお別れとなった。日記というプライベートな資料であり、性質上記述が簡略化されているのは致し方なく、渓仙宅でクローデル、喜多、栖鳳が膝を付き合わせたのか、それとも喜多、栖鳳との夕食は渓仙宅の訪問とは別であるのか知ることはできない。王舎城資料【II] 〔図8右〕はこの時の年紀を持つものである。前掲の「墨絵の叙景詩」には、この時栖鳳の「水墨山水」にクローデルが「墨は水に学ぶ」という意の詩を寄せたことや、「モシャモシヤとした枯木に、棄が一匹とまってゐル槍」を栖鳳が色紙に描くとクローデルが「昔の大使」という意味の言葉を書き入れたというエピソードもみえる(注27)。はたしてそのような意図がもとより栖鳳にあったのか定かで、はないが、恰幅のいい詩人大使クローデルを棄になぞらえたのだとすれば、随分と機知に富んでいる。『日記』の日本での最終ページにはクローデルとの別れを惜しむ人々から贈られた銭別の品が列挙されている。その中に栖鳳本人からであるのか「高橋栖鳳の愛くるしいパラ色の仔犬」も含まれて「見事な傑作だ」との賞賛の言葉が付け加えられている(注術館所蔵)のような応挙風を脱した写生的な子犬の小品だったのではなかろうか。以上、王舎城資料の解題を通して駆足で滞日中のクローデルと栖鳳との関わりについて述べてきた。最後に、年代不明のままこれまでに取り上げられなかった2点の王舎城資料について簡潔に補足説明をしておくことにしよう。王舎城資料[I ]〔図8左〕は、年紀がなく年代不詳であるが、ほぼ中央に詩とその後に続く為書と署名を分かつように書き込まれた円は、『雑橋集』に幾度か登場する月のイメージの引用とみられることから、『雑橋集』の完成する1926年よりは遡らない(注29)。次に[V】〔図9左〕であるが、これは1926年頃の作とされる〈焼鯛〉(軸装・紙本着色)とみて相違ないであろう。但し、何故その写真がクローデルの色紙の写真と同じページに貼られているのかということについては、現時点では保留としておきたい。まとめにかえて紙面も尽きたので、冒頭で表明したような問いに対して十分な結論を展開することはできないが、ここでは積み残した課題について今後の展望を述べ、まとめにかえたいと思う。クローデルが栖鳳に与えた示唆の中でもっとも大きなものは余白を実在とみる積極的な感覚であると考えられる。例を挙げるならば先述した三千院の〈幽林故道〉において「木立の樹木と樹木の間の空間」に注目するような感覚、あるいは「墨絵の叙景詩」で語られている「此隙間に蝶の形が三つある所がい〉。Jという感覚など424

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