鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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要j第2号、1997年4月、18頁注(3)竹内逸、改造社刊、1936年(7) 日本とフランスとの文化交流を目的とした交換展覧会事業全体を指し示す「日仏交換美術展覧守章( 1) 「私がみずからの任務として心に決めていた仕事のひとつに、フランスの人々に東京と京都在住(2)竹内栖鳳『大毎美術』第7巻2号1928年2月(4) この初対面の日時については今後大いに前倒しされる可能性がある。つまり、フランスに休暇で(5) 申請書では通説に則り〈蘇州の雨〉としたが、その後〈雨の蘇州〉が発表時の正式な題名である(6) これは勲章授与の直接の理由でもある。(8)林洋子「『現代日本美術』の演出−1920年代前半のパリにおける試みj『東京都現代美術館研究紀秋山光文王舎城美術賓物館外務省外交資料館ギメ美術館東京文化財研究所エレーヌ・パイユ沓沢耕介斉藤夏江笹木繁男佐藤道信塩谷純滝浪幸次郎田中晴子中僚忍塚本陽子内藤高永j賓嘉規中村節子野地耕一郎林洋子贋田孝山田俊幸山梨絵美子i度透の優れた日本画家を紹介することがあります。伝統的日本画の画家たちは世界的に知られています。しかしながら、彼らの教えが今も生きていて、彼らの後継者としてふさわしい画家に引き継がれていることは一般には知られていません。(…)」(1927年2月3日付外交文書。ポール・クローデル/奈良道子訳『孤独な帝国日本の1920年代ポール・クローデル外交書簡1921-27j草思社、1999年、437頁)一時帰国するクローデルに贈る記念文集として編まれた『ゆか里』(改造社、1924年)に栖鳳も挿絵を提供しているのである。製作期間のことを考えると、12月8日の授与式以前に既に面識があったと考えるのが自然で、ある。ことが確認されたため、本稿よりこれを統一して用いることにする。引用文中の表記は原文どおりとする。〈雨の蘇州〉の複製図版は『秘蔵日本美術大観6ギメ美術館」(講談社、1994年)を参照のこと。会」という表現をその一環としての「日本美術展覧会」に用いるのは必ずしも正確で、はない。が、煩雑を避けるため、ここでは便宜上「日仏交換展」と略称する。である。このクローデルの示唆はその後の栖鳳の画風にどう影響したのか(あるいはしなかったのか)。また、『橋Jで二つの三角形をもって説明される風景画論(注30)と、大正期に造営された別荘・霞中庵の建築で栖鳳が繰り返し用いた大胆な三角形のモティーフとの関係も看過しえない問題である。いずれにしても今回の調査は実際の交友関係に焦点をあてた実証的研究であったが、これを踏まえることによって上記のような美学的主題へのアプローチがより具体的な裏づけをもとに可能となるであろう。協力機関・協力者一覧(敬称略)-425

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