鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
444/592

(6) 三仏像と造像記中国の石窟寺院に5世紀以来みられる三仏構成については、これを過去、現在、未来の三世仏とするか、阿弥陀、釈迦(慮舎那)、弥軌を示唆しているのか、といった問題がある(注11)。唐代龍門石窟において三仏構成をとる像は大小合計して44例もあり、5、6世紀の問題と一概には論じられないが、三仏を解明するための重要な資料を提供している。三仏のうち2体が触地印像で表されるのが3例あり、損傷のため確言はできないものの、三仏中2体が触地印像の可能性をもつのが4例ある。中でも注目されるのが第964号寵の三仏で、正壁中央に{奇坐仏像、左右にそれぞれ片方の手を垂れる触地印坐仏像が配されている。中央のそれは全高123cm、左右は共に全高llOcmあり、開元5年(717)銘の造像記には「嘗て仏経をおおく読み過去未来見存三世仏の為に解脱せんと欲せども(中略)阿弥陀像釈迦牟尼像弥勤像を造り合わせて三鋪となし、一高に同在せしむ」とある(注12)。開元年間に阿弥陀、釈迦、弥軌を過去、現在、未来の三世仏とみなしていたことが判り興味深い。4 釈迦像、阿弥陀像についての課題釈迦と阿弥陀は、仏像が造られ始めたクシャーン時代のガンダーラ地方の造像から、刻丈に尊名が明記されない限り区別のつかない同じ像容をとっていた。また5、6世紀北貌の造像記には、「釈迦像を造り西方往生を願う」というような記述があるし、6世紀北斉の石窟寺院には『華厳経』の経文の一部を刻んだ洞内に阿弥陀浄土変を表現する例がみられる。そして7、8世紀の龍門石窟では、触地印を結ぶ阿弥陀像が見られる一方で、善導が奉先寺洞慮舎那仏像を検校している。また、8世紀後半の統一新羅で造られた石窟庵本尊触地印如来像は、本像を釈迦、慮舎那、阿弥陀のいずれとみなすかで議論が続いている。『大無量寿経』では西方浄土に「山がなく、海、谷もない」とされるにもかかわらず、7世紀後半の法隆寺金堂の第6号壁や、7世紀後半の敦埋莫高窟第332窟東壁南側の阿弥陀静土変と思われる図に山岳が描かれている。このように7世紀後半、8世紀になっても阿弥陀の像容も確定せず、西方浄土の光景にも矛盾が存在するのである。その背景には、阿弥陀が釈迦と明確には区別されていなかったという信仰の実態がうかがえる。唐代龍門石窟全体に尊名を明記しない造像記が多いのも、同じ理由からであろう。また、龍門石窟において阿弥陀像が650年代頃までは施無畏印を示していたのに対し、680年代以降は触地印に交代し、その触地印阿弥陀像が則天期以降やや大きな法量434

元のページ  ../index.html#444

このブックを見る