鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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注(2) 主な論考に、李松「龍門石窟唐代阿弥陀造像考察筆記」『重芸術撃』第17期、1997年、51〜102頁。(3) 劉景龍、楊超傑『龍門石窟総録』全12巻、中国大百科全書出版社、1999年。本『総録』は各巻ご(4)左右を問わずいずれか一方の掌を膝に伏せる印相を触地印とする。(5) 「両掌を膝に伏せる印jを示し阿弥陀銘を有する像も「触地印阿弥陀像」の範障に入るかもしれ(7) 天宝年聞の造像の代表として第1940号禽天宝10年(751)銘像の図版を示すべきだが、本像の良(9) この事については、拙稿「唐代龍門石窟の地蔵菩薩像」『女子美術大学研究紀要』第33号、2003(11)稲本泰生「小南海中窟と滅罪の思想、僧調周辺における実践行と『浬繋経』『観無量寿経』ので大量に表現されたことは、683年の高宗の死を機に政治力を拡大した武氏とその周囲の僧の信仰態度及び北インドで触地印像が増加しつつあった現象と何らかの関係があると推測される。触地印阿弥陀像の服制に通肩式が多い点もまた、武氏が高宗と共に造営し675年完成した奉先寺洞慮舎那仏像の服制が通肩式で表現されていることに影響されてのことであろう。このように、武則天とその周囲の信仰のあり方を探ることで、知来像が釈迦(慮舎那)像か阿弥陀像か判断のつかない状況を生む問題に一石を投じることができると信じる。頁。岡田健「初唐期の転法輪印阿弥陀図像についての研究」『美術研究』第373号、2000年、l〜5頁、29〜34頁等がある。とに「図版」「文字著録」「実測図」の3冊から成る。本「総録』の信憲性を報告者は2002年10月の現地調査に基づき検証したところ、第l巻で「図版」の禽編号と「文字著録」の聞に若干の組離があると同時に、全巻を通じて印相の記述に粗さと幾つかの誤りが認められる。しかし、現在出版継続中の新たな全集本『龍門石窟造像全集』(全10巻、文物出版社、2002年10月シリーズ開始)第l巻「図版」の禽編号と『総録』第I巻「文字著録Jの禽編号は一致している。結論として、本『総録J全体の像容、法量、造像記の記述は、摩滅、高所に位置する等の理由で確認できない場合を除き、ほぼ信頼できると判断した。ないが、数が僅かなため今回は研究対象から除外した。好な写真がないので、禽が隣接し、様式的にも極めて近い第1939号盆像の図版を掲載する。掲注(2)岡田論文29頁において、「阿弥陀像は通肩と偏祖右肩、さらに偏祖右肩に覆肩衣を着けるものと、着衣の形式からは3種類に分類できる」としていて、この意見に報告者は大旨賛同する。年3月、13〜20頁において言及した。同拙稿15、19頁では、無銘触地印像の左右に菩薩形遊戯坐像、菩薩形立像を脇侍とするのが19例としたが、14例に訂正する。同「阿弥陀」「観音」「大(勢)至」の三尊像は2例、もうl例は「阿弥陀」像と「観世音」「大勢至」を含む6脇侍菩薩像である。解釈を中心に」『鹿園雑集』第4号、2002年、25頁等、1958年以来指摘されている。( 1)塚本善隆「龍門石窟に現れたる北貌f弗教」『龍門石窟の研究』座右宝刊行会、1941年、152〜155(6) 図版は、前掲注(3)『龍門石窟造像全集』第I巻、図5670(8)唐代龍門石窟の如来像の版制についてこれまで幾つかの議論が行われてきたが、岡田健氏が前-435-

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