鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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ここで注目したいのは、北斉仏教界を代表する学僧で、郭近郊の宝山の地に霊泉寺を聞いた霊裕(518605)が、『観無量寿経』の注釈書を記していた事実である(注4)。北斉の仏教信仰は、崇仏国家として有名な南朝梁にも匹敵するほど盛んであったことが知られているが(注5)、その中心的役割を果たしていた高僧の一人である霊裕が『観無量寿経』に注釈を記していたということは、北斉仏教において『観無量寿経Jが受容されていたことを意味するものと考えられる。したがって、北斉時代に聞かれた南響堂山石窟の西方浄土変浮彫に、『観無量寿経』をふまえた表現がみられるということの背景には、こうした当時の北斉仏教における『観無量寿経』の受容という事実があったことを見逃すべきではないだろう。やはり郭都に近く、また南響堂山石窟と同じ北斉時代に作られた小南海石窟中窟西壁に、『観無量寿経J所説の十六観の一部が題記を伴って浮彫されている(注6)こともまた、北斉仏教における『観無量寿経Jの受容という同じ背景をもって生み出された現象のーっとして捉えられるのである。ところが、第二窟の浮彫について、曹貌・康僧鎧訳『無量寿経』(注7)にもとづくとする見方も提示されている。すなわち中村興二氏は、第二窟の浮彫における宝池の往生者表現に注目し、それらが貌訳『無量寿経』に説く「化生Jと「胎生Jをあらわしたものであると解釈しておられる(注8)。そこで、この往生者表現について検討してみたい。第一窟・第二窟ともに、宝池には蓮華から生まれる往生者のほかに、池中を泳ぐ往生者があらわされ、第一窟では岩上にも往生者があらわされているが、ここでは中村氏が『無量寿経』にもとづくとみなされた蓮華から生まれる往生者表現に注目したい。第一窟では、蓮華から生まれる往生者は二体あらわされるが、それらはいずれも開敷蓮華から半身を出しており、とくに表現上に違いはみられない。一方、問題の第二窟では、①開敷蓮華の上に坐す者(二体)②半開の蓮華から首のみを出す者(一体)③未敷蓮華の中に包まれている者(一体)の三種類の表現がみられる。これについて中村氏は、この三種の表現は貌訳『無量寿経』に説く上輩・中輩・下輩の別をあらわしたものとみなし、さらに同経の別の箇所に説く「化生」「胎生」を表現したものであると解釈する。すなわち魂訳『無量寿経』巻下には「彼国人民。有胎生。」「何因何縁。彼国人民。胎生化生。」とあり、化生と胎生とが一種の対概念として捉えられること。そして同経では上輩を「化生」と記すのに対し、中輩・下輩の往生は「化生jとは表現していないから、中輩・下輩は「胎生」にあたると考えられること。さらに『無量寿経Jには胎生について「此諸衆生。生彼宮殿。寿五百歳。常不見仏。不閉経法。不見菩薩声聞聖衆。是故於彼国土。謂之胎生。」とあること。以上から中村氏は、第二窟444

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