鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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察してきた。そこからいえることは、必ずしも『観無量寿経』の経文そのままを忠実に造形化しているとはいいがたいもののJ観無量寿経Jに説かれる観念がなければあらわしえないような図像が確かに含まれているということである(注12)。さらに、当時の北斉仏教においては、代表的学僧たる霊裕に『観無量寿経』の注釈書があり、小南海石窟に『観無量寿経』十六観の図があらわされるなど、教学と造形の両面において『観無量寿経』が受容されていたとみられることをふまえれば、南響堂山石窟の二点の西方浄土変はこうした北斉仏教における『観無量寿経Jの受容のなかにあって制作されたものとみなすことができるであろう。最後に、南響堂山石窟の西方浄土変浮彫について、その歴史的位置付けと意義についての私見を述べ、結びに代えたい。しばしば指摘されるように、西方浄土変の初期作例(注目)のうち、他の作例が唐代の作例とは画面構成が大きく異なるのに対し、南響堂山石窟の作例のみ唐代の作例と基本的に共通している。この点について、従来とくに論じられることはなかったが、北斉時代に制作された西方浄土変が後に唐代に発展し流行する西方浄土変の祖形となったからこそ、そのような共通性が見出せると解釈できるのではないだろうか。陪唐期における中国浄土教の祖とされる曇驚も、惰末唐初において浄土門の独立を宣言し道俗に大きな影響力を与えた道縛も、いずれもその活躍の場は旧北斉の地であり、のちに道緯の弟子の善導が道悼の没後に長安に出て盛んに布教を行なったのであった。こうした浄土教発展の歴史を考えれば、西方浄土変は陪以前に中国の他地域でも異なったタイプのものがつくられてはいたが、北斉の地で制作されていたタイプの西方浄土変が祖形となって後の唐時代に受け継がれ発展し、かつ全国的に流布したという道筋を想定することができるのではないだろうか。私が別稿にて論じたように、莫高窟に残る初唐期の西方浄土変には『観無量寿経J特有のモティーフが描き込まれている(注14)のであり、今また南響堂山石窟の西方浄土変の図像表現にも『観無量寿経Jの影響が認められた。画面構成のみならず、思想的にも唐代の西方浄土変は北斉の系統を汲み、それを発展させたものと位置づけられると考えられるのである。これについては、浄土教のみに限らず陪朝初期の中央の仏教界では旧北斉の都鄭下の系統の僧侶がもっとも多く活躍していたこと(注15)も考え併せる必要があると思われる。惰朝における北斉系官僚の動向や、旧南朝との関係等も視野に入れつつ、今後さらに検討してゆきたい。-447-

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