注(2)顔絹英「北斉禅観窟的図像考一一従小南海石窟到響堂山石窟」『東方学報』京都70、1998年(3) (注2)前掲顔氏論文。のち岡田健氏も同様の見解を述べておられる(「世界美術大全集東洋編(4) 『続高僧伝』巻九(『大正蔵』五十、495c、497c)。(10) 水野清一・長庚敏雄『響堂山石窟』東方文化学院京都研究所、1937年。(11) これについて注意されるのは、前述の小南海石窟中窟西壁において、題記まで、伴って『観無量寿経Jの十六観が彫られているにもかかわらず、実際にあらわされているのはそのごく一部に限られている点である。北斉のこの時期において、経典の内容をどこまで経文どおりに造形化しよう(12) このことは、南響堂山石窟の西方浄土変の図様全体が『観無量寿経Jにもとづく、あるいは『観無量寿経』で解釈できるということを意味するものではない。また、南響堂山石窟の西方浄土変は『観無量寿経1の変相図であるとして、観経変相であると主張するものでもない。なお、この点については「南都悌教』第83号(2003年10月刊行予定)の拙稿「敦士皇莫高窟の西方浄土変に描(1) 第一窟の西方浄土変は、2メートルを超す高さの入口の上部に刻まれており、しかも入口は南面(5)諏訪義純『中国中世仏教史研究]大東出版社、1988年、223〜323頁。(6) (注2)前掲顔氏論文。勝木言一郎「小南海石窟中窟の三位、造像と九品往生図浮彫に関する一考(7) 実際には、康僧鎧ではなく仏陀政陀羅・宝雲の共訳とみなす説が有力で、ある。藤田宏遠『原始浄(8) 中村興二「西方浄土変の研究」⑤・@『日本美術工芸』495・496号、1979年12月・1980年1月。(9) なお、中村氏は岩波文庫の注を引きつつ、この胎生をいわゆる四生のーっとして説明しておられして聞かれており逆光になるため、仰ぎみる形で懐中電灯と単眼鏡を用いて二日間調査を行なった。細部においては不十分な観察にとどまったことを断っておきたい。第三巻三国・南北朝』小学館、2000年)。察」『美術史』139、1996年2月。稲本泰生「小南海中窟と滅罪の思想j奈良国立博物館研究紀要『鹿園雑集j2、2000年3月など。土思想の研究』岩波書店、1970年。藤田宏達・桜部建『浄土仏教の思想第一巻無量寿経・阿弥陀経J講談社、1994年。同「わが国の浄土変相と敦憧」『中国石窟敦煙莫高窟三』平凡社、1981年。るが、これは誤りである。水谷幸生氏によれば、党本などと比較すると『無量寿経』にいう胎生はいわゆる四生の一つの、日前乳類の生れ方である胎生とは原語が異なり、むしろ蓮華蔵とあるべきところをかように漢訳したものであるという(「蓮華化生についてJ『浄土教の思想と文化』恵谷隆戒先生古稀記念編、1972年)。という意識があったのか、また無かったのかという問題も含め、今後の課題としたい。かれた『観無量寿経』モティーフ」を参照されたい。同他に西方浄土変の初期作例としては、天水・麦積山石窟第127窟右壁禽上壁画(西貌)、成都・万仏寺出土浮彫(梁)、敦煙・莫高窟第393窟西壁壁画(惰)がある。同(注12)前掲拙稿。岡山崎宏『支那中世仏教の展開』清水書店、1942年、382〜384頁。448
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