鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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の玩具が88種類、彩色摺で描かれ、それを題材に詠んだ白鯉館卯雲による狂歌が添えられている。軽い筆使いで江戸時代の玩具の特徴を捉え、文化史的な資料としても役立っている。この時期の狂歌は一部の層によって愛好されていた程度であり、この『江都三色』も後の天明狂歌の流行とは直接の関係はもっていない。序文は天明狂歌流行の立役者となる大田南畝によるもので、南畝と重政との間に最初の接点を見出せる点が興味深いが、この時期両者に交友関係があったことを裏付ける資料は、管見の限りまだ、見つかっていない。さて、江戸における狂歌の流行は、明和年聞から、唐衣橘洲、大田南畝、平秩東作、元木網、知恵内子など、武士や町人という身分あるいは年齢や男女を間わない、少数の仲間内で始まるが、安永年間頃には、徐々に江戸市中に広まっていき、各地に連が結成されるようになる。そして、天明3年、唐衣橘洲編『狂歌若葉集Jと四方赤良編『万載狂歌集』という狂歌本の刊行を原動力として、江戸における狂歌熱は最高潮に達した。この年、その爆発的なブームを裏付けるように、他にも一挙に10点以上の狂歌本が刊行されるが、その内のl点が『絵本見立椴警霊』である。さまざまな事物を貝に見立てる滑稽なこじつけを主題としており、左頁に簡素な絵と狂歌の賛を、右頁にこじつけの解説を載せるもので、全36図からなる〔図l〕。「勝尾春政画井書jという勝川春章、北尾重政の二人の名前を合成した酒落た署名があることから、二人の合筆であることが指摘されているが、両者の担当を見分けられるほどその描法に特徴はない。そもそも浮世絵師たち、あるいは黄表紙や酒落本の戯作者たちなど、出版業界で活躍する人々が狂歌師たちと交流を始めるのは、天明2年秋、上野の忍が岡で聞かれた「戯作者の会」が最初であったとされる(注1)。これを機に、恋川春町や朋誠堂喜三二、森島中良などの戯作者、あるいは北尾重政、窪俊満、喜多川歌麿などの浮世絵師たちが、狂歌の世界に足を踏み入れるようになり、時には、恋川春町のような戯作者側である人聞が、狂歌の会を主催するまでに至るのである。『絵本見立椴警霊』は、もともと戯作者である森島中良が編者となり、狂歌の方は、落栗連・数寄屋連・芝連のメンバーを中心に、四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘洲など天明狂歌界の重鎮らを加えた構成になっている。狂歌師と戯作者、そして浮世絵師たちの協力した成果が絵本として結実した最初期の作例であり、さまざまなジャンルに属する人々の関係が急速に親密になっていったことを示していよう。天明狂歌の流行はさらに続き、狂歌本が続々と刊行されていくが、徐々にその企画の中心であった狂歌師たち自身の意欲が失われていき、かわって、狂歌本を刊行する-453-

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