鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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板元であった蔦屋重三郎が、自ら狂歌師たちに働きかけ、主導権を握って企画を立て、編集していくようになった(注2)。天明6年、蔦屋重三郎の主導のもとに刊行された狂歌絵本が『絵本八十宇治川』〔図2〕と『絵本吾妻扶』〔図3〕である。『絵本八十宇治JIUは武者絵を、『絵本吾妻扶』は江戸の名所や月次風俗をそれぞれ題材としており、見聞きの画面に絵が主体として描かれ、余白にその内容に即した狂歌が一、二首添えられている。両作品とも全26図からなる。『絵本八十宇治川』は従来の武者絵本によく登場する人物が取り上げられ、その描法は重政が以前制作した武者絵本と同様である。『絵本吾妻扶』は室内や屋外の名所など、北尾風の人物を大きめに描き、心持ち↑府服的な視点から眺める、重政の過去の風俗絵本と共通する構図である。いずれの作品も、まもなく50歳を迎えようとする、確固たる自らの画風がすでに確立した時期の代表例として数えることができょう。この作品を皮切りとして、蔦重から、冒頭に述べたような歌麿の豪華色摺の狂歌絵本が続々と刊行されるようになる。その発端になったという意味で、『絵本吾妻扶』と『絵本八十宇治JIUは、狂歌絵本の歴史上重要な作例と言える。そして、寛政の改革前後から、大田南畝や恋川春町、朋誠堂喜三二ら武士たちは狂歌の活動を控えて文壇から姿を消していき、その中核が町人階級の人々へと移り、職業化していくことになる。狂歌連は、宿屋飯盛や頭光が属する伯楽連、鹿都部真顔や馬場金持が属する四方側に大きく分けられ、それぞれの連ごとに狂歌本を編纂していく。挿絵のある狂歌本は、全頁にわたって絵が施される絵本形式よりも、文章主体の狂歌本に挿絵を合間に数図はさむ絵入狂歌本形式が多くなっていき、数名の絵師が、それぞれ挿絵を数図ずつ担当して描いている。重政も、喜多川歌麿や窪俊満、葛飾北斎、鳥文斎栄之などの浮世絵師、あるいは鈴木都松や堤等琳など浮世絵師でない絵師たちとともに挿絵を寄せている。重政は、寛政6年、『春の色』(頭光撰)で正月の門付芸である「春駒図」を、寛政7年に『二妙集』(尋幽亭主人編)で「鰹とホトトギス」を、寛政9年に『柳の糸』(浅草庵市人編)で村上天皇と紀内侍の故事「鷲宿梅」〔図4〕を、寛政10年には『深山鷲』(流霞窓広住編)で「渡舟図」を、『男踏歌j(浅草庵市人撰)で紫震殿に白馬を引き連れる「白馬の節会」〔図5〕を、『三陀羅かすみJ(三陀羅法師編)で「公家人物」を、それぞれ描いている。色摺りで丁寧な描写の作品が多く、従来にはなかった古典的な題材が取り上げられていることも、この時期の狂歌連の趣向をうかがう手掛かりとなるであろう。これらの作品から重政と狂歌壇とのつながりを分析すると、最初、頭光率いる伯楽連と関わりがあり、寛政8年、頭光の没後、伯-454-

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