鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
465/592

楽連を窪俊満が引き継ぎ、浅草庵市人率いる壷側が別グループとして分割してからは、壷側とも協力するようになることが分かる。重政が、伯楽連に属する人々とつながりが深かったのは、門弟である窪俊満がその活動の中心人物であったこと、また、伯楽連の狂歌本の板元は蔦屋重三郎であったが、以前からの蔦重と重政との密接な関係が、この時期においても継続していたことなどが想定されよう。さらにその後、すでに70歳を迎えた文化年間においても、挿絵の制作は続けられる。中でも注目すべきが、文化6年刊の『狂歌百人一首j(宿屋飯盛編)〔図6〕という、宿屋飯盛率いる五側の有力狂歌師百人の肖像を、百人一首に見立てて描いたものである。江戸払いになっていた飯盛が、文化5年頃から文芸活動に復帰し、これ以降の狂歌界は、四方側の真顔と五側の飯盛が対立する時代となるのだが、『狂歌百人一首Jはその五側が活動を旗上げしょっという時期の大事な作品である。百人一首見立ての趣向は、北尾政演(山東京伝)の『吾妻曲狂歌文庫』(天明6年刊)以来類例が数多く、目新しさには欠けるものの、重政の晩年の精力的な活動をうかがわせる優品となっている。飯盛は江戸払いされる以前、『絵本武者蛙』(天明7年刊)や『歴代武将通鑑』(寛政元年)などの重政の武者絵本の序文を記しており、また、飯盛が江戸に戻ってから執筆した『近江県物語j(文化5年刊)や『敵討記乎汝』(文化5年刊)などの読本や合巻に重政が挿絵を描いていることからも、重政と飯盛の聞に個人的に深い交遊関係があったと推測される。また、重政は、文化7年に『狂歌千もとの華』(千首楼堅丸編)では「洛陽醍醐図」〔図7〕という京都の醍醐の風景を鳥服図的に描いている。「行年七十二歳画Jと落款に年齢が明記されているのも珍しい。また同じ年、『堀川太郎百首題狂歌集』(宿屋飯盛編)に[駒迎J〔図8〕を、刊年不明だが、『狂歌萩古枝』(浅草庵市人編)では「ホトトギスjを描いている。飯盛率いる五側、あるいは寛政年聞から続く査側との関わりがあったことを示していよう。以上のように、重政の作品は、天明狂歌流行以前の時期、天明狂歌ブームに合わせ狂歌絵本が刊行されるようになった時期、板元蔦屋重三郎が狂歌絵本の編纂を進めた時期、寛政の改革以後町人が狂歌連の中心として台頭した時期、文化年間に飯盛の五側と真顔の四方側との対立が始まった時期と、狂歌の歴史の節目節目に関わっている。重政自身狂歌師として活動することはなく、その狂歌本の挿絵も依頼によるものであろうが、結果として重政の狂歌絵本が、江戸における狂歌の歴史を図らずも体現しているのである。-455-

元のページ  ../index.html#465

このブックを見る