鹿島美術研究 年報第20号別冊(2003)
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2.『絵本八十宇治川』と『絵本吾妻扶』の位置付け次に、重政の狂歌絵本の代表作である『絵本八十宇治JIUと『絵本吾妻扶』を取り上げ、他の浮世絵師たちの作品と比較をおこないながら、重政の狂歌絵本が浮世絵史上にどのような位置付けにあるのかを考察したい。『絵本八十宇治川』と『絵本吾妻挟』で着目すべきは、天明3年以降に刊行されたほとんどの狂歌本が備えていたパロデイーや見立ての要素、例えば、『絵本見立椴警霊』における員の見立てのような発想の滑稽さが根底になく、純粋な武者絵本、あるいは名所風俗絵本として鑑賞し得る点である。この点に関し、鈴木俊幸氏は、狂歌師たちが出版を遊びの場としようとする戯れの精神が疲弊し、狂歌が出版機構の中に呑み込まれていったという、狂歌という文芸そのもののあり方が大きく変動した象徴とみなしている(注3)。だが、狂歌本としてではなく、絵本という観点からこれらの作品を眺めた場合、その制作の背景に、当時錦絵界を席巻していた鳥居清長へ対抗し、新たに絵本というジャンルに事業を拡大しようとする板元蔦屋重三郎の経営戦略を読み取ることができる。清長は、重政の狂歌絵本制作の直前、同じような内容の絵本、すなわち、天明2年に『絵本武智袋』という武者絵本を、天明5年に『絵本物見岡』という名所風俗絵本を刊行していた。この頃の蔦重は、天明3年9月に吉原から日本橋の通泊町に店舗を移し、地本問屋へと転身したばかりであり、清長の「雛形若菜の初模様」(天明2年刊)に対抗すべく、天明4年、北尾政演(山東京伝)の描いた吉原遊女の錦絵を『新美人合自筆鑑』という絵本に仕立てて販売したような、気概に満ちた野心を燃やしていた。そのような蔦重が、吉原から出版の中心地に移ったのに際し、従来扱っていた黄表紙や酒落本などの戯作、あるいは吉原細見などだけではなく、天明狂歌ブームに乗じて、広範囲の購買層を視野に入れた絵本、すなわち清長に対抗できるような武者絵本や風俗絵本のジャンルに参入していこうとしていたと考えるのは、あながち飛躍でもないだろう。実際、吉原で営業していた際は、重政・春章画『青楼美人合姿鏡』(安永5年刊)という吉原遊女を描いた絵本しか刊行していなかったが、通油町に移ってから、それまでは制作することのなかった、狂歌絵本や武者絵本、風俗絵本を精力的に出版し続けることになるのである。実際に清長の作品を検討してみても、その扱う題材や画面構成なと守において、重政と共通する点が認められる。まず『絵本武智袋』の場合、顔の表情が鳥居派風であるが、従来の武者絵本でしばしば登場する人物が選ばれている点や大きく画面に武者を456-

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