描く画面構成が『絵本八十宇治)||』と類似している。中には、曽我五郎と朝比奈三郎による草摺引の場面のように、人物の向きやポーズまでことごとく重政と類似した図〔図9、10〕もある(注4)。また、『絵本物見岡』の場合、清長風で描かれている人物描写は北尾風と大きな差異があり、また、奥行きのある広々とした背景描写については、錦絵で同様の構図を得意としていた清長の熟練した腕前が認められる〔図11〕。だが、従来の江戸名所を題材とした絵本が、春信の『絵本続江戸土産』(明和5年刊)のように鳥服図的に描かれているのに対し、『絵本物見岡』が、そこに賑わう庶民たちの姿を活写することを目的とするようになったという点は、『絵本物見岡』が重政の『絵本吾妻扶』と同様の趣向とみなせよう。重政は明和・安永年間に『絵本武者林』(明和8年刊)や『絵本千々武弥満』(安永5年刊)などの武者絵本、あるいは『絵本藻塩草』(明和5年刊)や『絵本吾妻花』(明和5年刊)などの月次風俗絵本を手掛けており、絵本についての実積は清長をはるかに上回っていた。清長の絵本制作の前提に重政の絵本の存在があったことは当然無視できない。したがって、重政が『絵本八十宇治JIUと『絵本吾妻扶』を制作するにあたり、単に清長の絵本に追随しようとしたということはなかろうが、清長の作品に大きく触発され、しばらく制作から離れていた武者絵本や風俗絵本を再び手掛けようとしたと考えることができる。では、重政の『絵本吾妻扶jや『絵本八十宇治J11』は、この作品以降続々と出版されていく狂歌絵本に対し、どのような役割を果たしたのだろうか。『絵本吾妻扶Jと『絵本八十宇治)||』以降、蔦屋重三郎のもとから続々と狂歌絵本が出版されるが、その挿絵の担当は、重政から歌麿へとバトンタッチされた。『画本虫撰』や『潮干のっと』など、歌麿が筆を取った豪華彩色摺の狂歌絵本については、ここで改めて紹介するまでもないだろう。これらの歌麿の狂歌絵本に、重政の絵本から借用されたと思われる図様が多々あることが、すでに鈴木重三氏によって指摘されている(注5)。歌麿は、『絵本詞の花』(天明7年刊)や、『絵本吾妻遊』(寛政2年刊)、『絵本駿河舞』(寛政2年刊)など、重政の『絵本吾妻扶Jと同じ名所風俗を題材とした絵本において、『絵本吾妻扶』から構図の一部や登場人物、樹木、建物などを、若干の変化を加えたり、配置を変更したりして借用している。すなわち、歌麿は重政の作品の影響下にあったのである。その一方で、重政の門下であった北尾政美(鍬形意斎)による江戸名所を題材とし-457-
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